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土岐胤倫

ときたねとも

土岐胤倫とは

生誕不明~慶長4年(1599)別名土岐源八郎、戦国時代の武将、龍ケ崎城主。美濃土岐氏の流れを汲む江戸崎城主土岐治英の子、並木堤防を築き龍ケ崎の町づくりに着手します。

常陸土岐氏(土岐原氏)について

常陸土岐氏は、美濃国守護を務める土岐氏の支流で、南北朝時代土岐師親が美濃国遠山荘原郷(現岐阜県恵那市山岡町原)を拠点に置いたことから原氏を名乗っていました。その後原秀成は関東管領上杉氏の被官として関東に下向し、江戸崎に本拠を置きました。これが常陸南部で勢力を伸ばした原氏のはじまりで、千葉原氏と区別するため土岐原氏あるいは常陸原氏といわれるようになります。

土岐原氏4代目、景成の死後、後継者がいなかったので、宗家である美濃土岐氏より治頼を婿養子を迎え5代目の家督を継がせました。

一方美濃国では、治頼の兄で守護の土岐頼芸(よりあき)が斎藤道三によって国を追われ、弟を頼り江戸崎に身を寄せます。こうして土岐宗家が没落したため、原氏は土岐氏の再興のため土岐氏を名乗ります。そして治頼の後を継いだ土岐治英は龍ケ崎方面に勢力を伸ばします。

龍ケ崎城主・土岐胤倫

土岐治英は江戸崎城の支城として龍ケ崎に城を築きます。築年は不明ですが、永禄10年(1567)10 月から改築工事がはじまり、翌 11 年に治英の次男胤倫が城主として配置されたと記録されています。

龍ケ崎城主となった土岐胤倫はさっそく龍ケ崎のまちづくりに着手します。しかし、城下は度重なる鬼怒川(現小貝川)の氾濫で湿地帯が多く、人が暮らすには不向きな土地でした。

胤倫はこの湿地帯を開拓し、城下の南側に堤防を築きました。堤防は馴馬村、龍ケ崎村、大徳村、宮渕村、生板村(現河内町)までの広範囲に及び、これにより頻度の水没はなくなりました。こうした開拓事業により城下は平坦で町づくりに好条件の土地に生まれ変わりました。そして胤倫は大統寺の創建や八坂神社の遷座、道の整備等、この地の町づくりを精力的に行いました。それが現在の龍ケ崎中心市街地の原型となっています。

羽柴秀吉によって小田原北条氏が滅びると土岐氏の勢力は失速します。胤倫は子の頼房や重臣と共に城を脱出して諸国を流浪したとも、龍ケ崎に身を隠したともいわれています。

胤倫は慶長4年(1599年)に没し、大統寺に葬られました。

胤倫の末裔

子の頼房はその後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の豊島に改名しました。初代紀州藩藩主徳川頼宣(家康10男)の信任で紀州徳川家の家臣となり大坂の陣で活躍しました。時代は下り、紀州徳川家から8代将軍吉宗が誕生した時、豊島朝治は吉宗の幕臣として召し抱えられ土岐氏に復姓し幕府旗本となりました。