• 史跡旧跡top  泊崎大師堂  牛久城跡  東林寺と東林寺城跡  成井一里塚  遠山城跡  安楽寺  平国香の供養塔  清水山慈眼院 宮和田の渡し場と文巻橋  藤代宿  牛久宿  牛久陣屋跡
  • 牛久陣屋跡

    山口氏の牛久藩

    由良氏改易後、牛久藩主としてやって来たのは山口重政であった。関ヶ原の戦い後、由良氏に代わって1万5千石を拝領し牛久藩主として封じられた。その後山口重政は徳川幕府の政争に巻き込まれ一旦は改易となるが、寛永6年(1629年)に大阪の陣の武功を認められ、再び牛久に封じられた。その後、重政死去に伴い、四男の弘隆が遺領を相続、その時に5000石を弟の重恒に分知したため、所領は1万石余りとなる。寛文九年(1669年)牛久陣屋は、二代目藩主山口弘隆によってに建てられた。以後、山口氏は代々牛久藩主として幕末まで継承された。 

    牛久陣屋について

    牛久市城中町の一角、牛久沼を一望できる景勝地に河童の碑が建っている。実はその場所から後部の畑にかけてが陣屋跡である。 またこの場所は戦国時代の牛久城の一角にあたり、濠や土塁などの防衛施設跡が残っている。陣屋の敷地面積は約12,000㎡余りで、その中に御殿・長屋・蔵などが建っていた。

    明治維新後も一時牛久県庁とし使用されたが、まもなく新治県に統合されたため、その機能を失った。

    山口重政について

    山口氏は周防の大内氏の出身で、周防山口の地名を採って山口氏とした。元々は織田信長の家臣の佐久間正勝に仕えていた。天正12年小牧・長久手の戦では織田信雄に従って徳川家康方につき、徳川氏とのつながりを深める。天正14年(1586)に叔父にあたる重勝の養子となって尾張国東部の星崎1万石の城主となる。その後織田信雄と共に配流の憂き目に合うが、秀忠によって江戸に召され、その家臣となり、上総国で5千石を与えられる。関ヶ原の戦い後、常陸5000石が加増された。

    牛久陣屋跡(雲魚亭隣り)