牛久沼のなりたち

牛久沼の北側、及び西側に広がる高台を稲敷台地といい、その最南端及び牛久沼を見下ろす台地はいたる所に浸食谷が刻まれて複雑な地形をしている。地質は成田層、成田砂礫層を基盤とし、その上に常総粘土層、関東ローム層が堆積している。

紀元前1万年ほど前の先史代からこの台地上に人が住んでいた形跡が残っている。竜ヶ崎ニュータウン建設中に発掘された沖餅遺跡などから窺うことが出来る。

縄文時代の中期、後期頃までは牛久沼付近まで海水が流入し、稲敷台地に入り江がくい込んでいた。人々は狩猟・漁労のほか、製塩を行い、また海上による産物の物々交換が容易であった。この時代の人々にとって入り江を見下ろす稲敷台地は、自然の産物が豊富で住みやすい土地であったと思われる。

龍ヶ崎市立松葉中学校校庭の赤松遺跡が発掘された場所に縄文時代の竪穴住居が復元されているので興味深い。

縄文時代後期、弥生時代になると海水は徐々に後退し、平野部では稲作が行なわれるようになる。生産用具に鉄器が用いられたのはこのころで、飛躍的に生産が向上した。さらに生産を向上させるために組織的に農作業を行なうようになる。古墳時代(大和時代とも言う)になると社会的地位の区分、支配階級と被支配階級がはっきりするようになり、やがて強力な権力者が現れ部族国家が誕生する。農民は農具だけではなく武器をも持たなければならなくなった。

ちなみに、牛久沼の成立は、縄文時代の後期、海水が徐々に後退する過程において、下流の低湿地からの逆流が活発化し、土砂が堆積してせき止めれ、湖沼化したと言われている。そのころは海水であったが湖水も、弥生時代には完全に淡水となったようである。ただし、この沼が牛久沼と呼ばれるようになるのは、江戸時代になってからである。

さて、
各々の部族国家は、領土拡大のために近隣部族と争いを繰り広げていたが、幾多の年月を経て、5世紀頃には大和朝廷という統一国家に組みすることになる。しかし、大和朝廷の威光は東国まで届かず、この地方の豪族たちは半ば独立した形態をとっていた。その豪族の陵墓、蛇喰(じゃばみ)古墳からその一端が窺える。

7世紀、飛鳥時代になると、法律が整備され基本的な国造りがはじまる。大化改新後は大宝律令という律令制度が整い中央集権化が進んだ。そして全国を国・郡・里に分け、それぞれに国司・郡司・里長をおき、国司は中央の官僚を任命し派遣し、郡司にはその土地の有力者が任務に当たった。当然の事ながら、東国の牛久沼地方も律令の元に中央集権的な統治が行なわれた事は言うまでもない。

その頃迄は足柄の坂より、東国はすべて我姫(あずま)の国と言われていて、常陸国と言う国名はなかった。それぞれ唯新治、筑波、茨城(うばらぎ)、那加、久慈、多珂の国と呼ばれていた。牛久沼周辺はその中の茨城の国に属していた。律令制により、常陸国が設置されると、牛久沼は常陸国河内郡に属すことになる。ただし東方は女化あたりから常陸国信太郡に属し、沼南端の地は下総国相馬郡に属していた。このように牛久沼は古代から複数の行政組織に囲まれて独自の風土を築きながら現在に至っている。

飛鳥時代に始まった律令制度は形を変えながら、奈良時代、平安時代と続く。その間、国司に任じられた官僚は貴族化し、私利私益だけをむさぼり続け、政治を疎かにしするようになった。当然の事ながら地方政治は乱れ、人々の生活は疲弊し治安も悪化していった。そのため郡司などの地方豪族は同族を中心とした武士団を結成し土地や農民を力で支配するようになる。また中央で思うように官職に就けなかった下級貴族が東国に下り地元の豪族と糾合し、武士団を結成する場合もあった。特に東国は中央政府の干渉を受けにくく、武士団の台頭は著しく、常陸国を中心に繰り広げられた平将門の乱は、このような背景の元に起きたのである。当然ながら牛久沼周辺もこの乱の戦場と化した。

平将門の乱はやがて収拾されるのであるが、この乱が一つのきっかけとなり、朝廷の威信は失墜し、やがて武士中心の政治が行なわれるようになる。

牛久沼の語源

『古今類聚常陸国誌』は「牛久湖 国訓宇之苦乃宇美、在河内郡牛久村南、故名、源出蚕養川」と述べ、『常陸誌料郡 郷考』は、「牛久沼 文禄地図には太田沼と注せり(中略)、今ハ沼の東辺牛久若柴等官道なれは往還の行旅牛久の方より此沼を下瞰するを以て牛久の名を負ひしと見えたり」と述べ、柏安之の『常陸国名勝図志』は、「牛久湖 牛久村にあり、(中略)源は蚕水に出つ」と述べ、『大日本地名辞書』は、「牛久沼 牛久、佐貫の西方なる湖沢にして、筑波郡の野水之に注入し、南に逃路ありて、(中略)以て小貝川へ通ず。(中略)往時に在りては、汎濫最広く、後世と頗異なりしを想ふべし」と述べている。

(以上龍ヶ崎市史・原始古代編、引用) 

古くは大田沼、あるいはその沿岸の地名を採って佐貫浦、足高浦、小茎浦、牛久浦、などと呼ばれていたが、いつの時代か牛久沼と呼ばれるようになった。その語源は前途の引用文によると次のように考えられる。

  • その一、牛久村の南にあることに由来する。
  • その二、沼の東辺に水戸街道若柴宿があり、行き来する人々が牛久方面の沼を見て「牛久の沼」と言ったことに由来する。
  • その三、泥が深くて牛をも飲み込んでしまう、午喰沼、つまり、「牛を喰った沼」と言う金竜寺の伝説に由来する。
  • その四、天正年間に、由良信濃守国繁が牛久城主に封ぜられたとき、牛久城より西方を見下ろすと、眼下に足高浦、佐貫浦、小茎浦、牛久浦の四浦があり、「大きな水湖をなし深淵にして開墾もならず、これを牛湖又は牛久沼と呼ぶ」といったことに由来する。
  • その五、縄文時代、牛久沼深く海水が流入し、「うしく」は「うしお来る」すなわち「大潮来る」という意味に由来する。

参考文献、龍ヶ崎市史