ゆかりの人Top 平貞盛 下河辺正義 土岐胤倫 由良国繁 伊奈忠治 桜井庄兵衛 犬田卯 英美子 澤ゆき 木村安兵衛 増田れい子

伊奈忠治

伊奈忠治とは

文禄元年(1592)~承応2年(1653)武蔵小室藩(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)藩主・伊奈忠次の次男として生まれます。
父に河川工法を学び、若くして大規模な治水事業に挑みました。
利根川の東流工事、小貝川と鬼怒川の分流工事、福岡堰・岡堰・豊田堰の築造などの当地方の主な治水工事の指揮をする。そのほかでも荒川と利根川を分離し、荒川一帯の新田開発を進めるなど、治水工事に著しく凄腕を振るった。
1642年には、のちに関東郡代と呼ばれる職に就いて、その後は伊奈家の世襲となる。

伊奈忠治の治水

鬼怒川と小貝川の分離

古くは子飼川、蚕飼川と呼ばれていて栃木県八溝山地を水源とする川である。同じく栃木県を水源とする鬼怒川が小貝川よりやや西方を流れていた。近世初頭まで、この二つの川が谷和原村(現つくばみらい市)で合流し、たびたび河川の氾濫を引き起こした。更に東南方面に牛久沼があり、大雨による増水と合せ、この地域一帯は葦や萱が生い茂る沼沢であった。

関東代官の伊奈忠治(いな ただはる)は合流地点の氾濫の解消と新田開発のため、寛永6~7年(1629-8)、鬼怒川と小貝川を分離し、新い河川の開削と付け替え工事をした。また、忠治が請け負った八間堀や二千間堤等牛久沼の治水事業と合せ、この地方の沼沢は広大な稲作地帯へと変貌したのである。いうまでもないが、伊奈町(現つくばみらい市)の町名は伊奈忠治の事跡に拠るものである。また、旧藤代町の萱場という地名は萱が生い茂っていたことの名残である。

龍ケ崎村、大徳村、宮渕村も流路の変更や新利根川の開削などで、大きな恩恵を受けました。広大な湿地帯の開墾が可能になり、豊かな農業地帯となったのです。

付け替え以前の鬼怒川は合流地点から龍ケ崎方面に南下し川原代村の東側を流れていた。この川が当地域における常陸国と下総国の国境になっていた。

新たに開削された川は、山王村岡(現取手市)、川原代村の西側を流れ、高須、豊田、羽根野、戸田井に至り、そして利根川へと流れる。つまり、これが現在の小貝川で、龍ケ崎市と取手市の境界線の役割を成している。

この河川の付け替えによって、下総国相馬郡は川を挟んで東西に分断される形となった。つまり、川原代村及び北文間村と高須村の一部が相馬郡より切り離された形で小貝川東辺の村になったのである。 そして時代は昭和になり、これら北相馬郡(旧相馬郡)の川原代村、北文間村、高須村の一部は下総国という歴史的な繋がりよりも、地続きの龍ケ崎との結びつきを希望し、昭和29年(1954)の大合併においては、龍ケ崎市に統合されたのである。

牛久沼の治水

小田原北条氏のあとを受けて関東に入国した徳川家康は基盤となる領国の経営に乗り出し、荒れ地や湿地帯などの改良で農地の拡充、肥沃化に力を注いだ。 鬼怒川と小貝川の分離や、新利根川の開削はその一環で、その中に牛久沼の治水工事も含まれる。

そもそも牛久沼は、面積の広さの割には水深が浅いため集水能力が低く、洪水を起こしやすい沼であった。度々の氾濫で沼の周辺、特に小貝川との狭間の低地部分は菅場谷原と呼び、一面湿地帯だったのである。

この菅場谷原を干拓するためには、小貝川の水とともに、牛久沼の水を制御する必要があった。その工事を請け負ったのが幕府方関東郡代伊奈忠治であった。

そのためにまず、水抜堀として江川が開削された。その後江川は用水路の性格が強くなってゆくが、本来は水抜堀であった。しかし、水抜抜堀としての江川は牛久沼の水を排水するには不十分な施設であった。

伊奈忠治はそこで、寛永四年(1627)弥左衛門新田(藤代町)から小貝川にかけての新水抜堀を開削した。当初新川と呼ばれていたが、堀幅の長さが八間だったので八間堀と呼ばれるようになる。また、その後新しい八間堀が出来たため、古八間堀と呼ばれるようになるが、だいぶ先の話なので、ここでは八間堀と呼んでおこう。尚、新川は今でもも地名として残っている。 まずは、八間堀のお陰で牛久沼の排水能力は高まり、菅場谷原の新田開発が急速に進められたのである。

しかし一方、江川を用水路として利用していた下流の龍ヶ崎村など三ヶ村は、このままでは用水が不足する恐れがあるので八間堀の川口を築留めとするよう忠治に訴えた。幕府は検分のすえそれを認め、八間堀を築留めることと、用水を自由に引くことを認めたのである。

しかし、八間堀を築留めとしたのでは排水能力が著しく低下し、ふたたび萱場谷原が牛久沼の氾濫に遭う恐れがあるので、そうした被害を守るために、沼の西側を南北に堤防を築いたのである。この堤防は八間堀口から福岡村(現谷和原村)まで続き、その長さから二千間堤と呼ばれるようになった。

こうして、二千間堤のお陰で萱場谷原一帯は水害から免れるようになったのであが、こうした牛久沼の治水工事を巡る争いはその後も延々と続くのである。

参考文献、龍ヶ崎市史、近世編