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桜井庄兵衛

桜井庄兵衛とは

下総國相馬郡平野村(現藤代町)出身で常陸國牛久村の豪農。苦節37年の年月と私財のすべてをなげうって、牛久沼の新田開発に尽くしますが、この事業は頓挫となり、わずかな干拓地に庄兵衛新田という地名が付けられました。

桜井庄兵衛の新田開発

背景

 八代将軍吉宗は、将軍の権力を強化し、積極的な財政の建て直し政策をとった。
まず倹約令をだして財政支出を抑えるとともに、治水・新田開発に力を入れ、また河川敷における流作場の開発や芝地・秣場への課税など、これまで対象とならなかった微細な土地までが開発や課税の対象となったのである。
特に江戸の人口は増加する一方で農産物が不足し、その需給拡大を関東地方の原野及び湖沼開拓に向けられた。
そのような背景の元に牛久沼の500町歩という土地の開発計画は進んでいったのである。

牛久沼近隣の利害関係

地域農民の牛久沼への関心は高く、水を巡っての争いは絶えなかった。
牛久沼の水争いは通常の水争いと違い、上流と下流とでは水の使用目的が違っていた。
上流の25ヶ村(現在の茎崎町、伊奈町、つくば市谷田部)は排水などの悪水落しにつかい、下流の9ヶ村(現在の竜ヶ崎市、河内町)では用水原、特に水田への水引に使用された。
当時は治水が悪く、毎年のように洪水に悩まされ、小貝川の水が逆流し沼周辺の田畑は水没が絶えなかった。下流村にとっ欠かす事の出来ない牛久沼の水は、上流村には水害の源でしかない、そのような状況で八間堰を巡って論争が繰り返されて来た。

桜井庄兵衛の干拓出願

桜井庄兵衛は享保10年(1725)牛久沼の干拓を勘定書に出願する。勘定役、井沢弥惣兵衛為永の調査と設計に基づき干拓が許可されるが、条件は厳しいものであった。その条件とは、下記の通りである。
地代金  3750両(開発権利金)の納入
干拓完了後、新田検地により年貢高の決定
取り敢えず、冥加米(年貢の代わり)、1年200石(500俵)を上納
この通り、不可能と思われるぐらいの厳しい条件は、後に庄兵衛の財政破綻を引き起こすのである。

干拓開発

開発にあたってまず、東西から流れ込む谷田部川、境松川(現、西谷田部川)から沼内に流れ込む悪水を制御するために、沼の2つの入り口、北浦には小茎村(茎崎町)に地内に、また西浦には板橋村(伊奈町)に締めきりを設けるとともに、江川に平行して約8間(14.5メートル)、長さ4500間(8.2キロメートル)の水抜掘りを開削し、小貝川に放流させた。また、境松川・矢田部川の周囲には、沼内への流水を防ぎ、江川へ流し込むための堤防をめぐらせた。一方用水源を失う下流の9ヶ村に対して代替として、小貝川に洗堰を築き、福岡堰(谷和原村)用水の余水を振り向けるため、伊丹代用水を開削し、江川へ振り向けた。
こうして総ての準備が整い享保12年(1727)からいよいよ沼内の干拓が始められたが、開発は困難をきわめ工事は遅々として進まなかった。

干拓の挫折

干拓失敗の要因は、まず第一に水害が考えられる。小貝川の水の逆流や堤防の決壊などによる沼内への流水が度重なって難工事となったのである。次に庄兵衛の経済的破綻が大きい。まず、地代金を払えなかった。(3750両の内、712両上納)冥加米も未納、そして難工事のため幕府から1000両を借金したが、267両が未返済となった。そのような状況の中で勘定役井沢弥惣兵衛も他界し、干拓工事への情熱を失ってしまった。しかし直接の要因は、下流域9ヶ村(竜ヶ崎市、河内町)の農民による牛久沼用水源(溜沼)復帰運動が盛んに行われ、箱訴(評定所の目安箱へ訴える事)によって干拓差止めとなったのである。

9ヶ村による箱訴

牛久沼の干拓とそれに伴なう伊丹代用水の開削は、上流域の25ヶ村に対しても、用水不足と悪水の充満という被害をもたらしたのである。それにもまして、下流9ヶ村は用水不足が深刻であった。9ヶ村では用水不足の実態をさまざまな形で訴願を繰り返してきたが、なかなか聞き入れられなかった。そして宝歴11年(1761)改めて各村の名主をを総代に立て、牛久沼を元の溜沼に戻すよう幕府の勘定奉行へ訴願に出向いた。ところがこの訴願が却下されただけでなく、新たに余分な普請まで請け負ったのである。驚いた9ヶ村は名主による訴願に見切りをつけ、若柴村の次郎兵衛、生板村の三郎兵衛、川原代村の善左衛門の3人を総代に立て箱訴におよんだのである。
この箱訴の内容は、まず、第一点として、新たに請け負った普請の取り消しすこと。第二点として、溜沼への復帰を認めてもらうための代替条件を引き受けること。第三点は庄兵衛の運上金横領などの非儀を訴ること。であった。
勘定奉行所では代替条件や庄兵衛の願意など吟味を繰り返し、宝歴14年(1764)やっと裁定が下された。牛久沼御裁許書によると、庄兵衛に対し、僅かに残った干拓地18町9反を請地とする。今の庄兵衛新田の事である。
9ヶ村に対しては庄兵衛の借財の肩代わりとして、地代金の未納分750両(15年賦)と借金残高267両(2年賦)を納入すること。その他に運上金として藻草運上米50俵、魚鳥、蓮根運上米50表を納入するすることであった。
次に関係者への処分として庄兵衛に対し運上金横領は不問にするも、泥深の場所で開発困難な場所と分かったならば計画変更を願い出るべきことを怠り、40年かけても開発出来なかったことに対し「急度御叱」(きっとおしかり)が申し渡された。9ヶ村総代の3名に対しは、本来ならば村役人を通じて訴願を行うべきところ、箱訴に及んだことは不だちとして、同じく「急度御叱」が申し渡された。

溜沼復帰への条件

桜井庄兵衛は、苦節37年の年月と私財のすべてをなげうったが、この計画は中断となった。牛久沼の水を農業用水としている川下の農民たちのことを無視したこと、そして技術不足と、しょせん無理な計画であった。
彼は失意のうちに生涯を終えて、そして残ったものは莫大な借金と、わずにのこされた干拓地の庄兵衛新田という地名だけであった。現在、庄兵衛新田町は、竜ヶ崎市のほか、牛久市、茎崎町と分散して残っている。

竜ヶ崎市の庄兵衛新田は明治になって陸前浜街道が施設され、さらにその街道は国道6号線に昇格し、その後の産業の発展に大いに貢献したことになる。

牛久沼干拓堀割遺構

牛久市新地町の牛久沼に面した場所に干拓の掘跡が無残にも残っている。この掘跡は排水路として谷田部川から続く沼内東側に幅約14メートルで掘られた一部である。沼内排水路は沼内西側を含めると約16キロにも及んだが、遺構として残っているのはここだけである。遺構の排水路跡は老松が茂る堤の幅が4メートルほどで、掘は原刑が判らないぐらい浅くなっており、又古い堤の前に新しい堤が施されている。

老松が茂る干拓堀割跡

 

 

参考文献、龍ヶ崎市史出版記念公演会資料