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  • 東林寺と東林寺城跡

    東林寺と東林寺城

    左手に牛久沼を眺めながら三日月橋を渡ると、前方に小高い丘が見える。その丘は牛久沼に突きだした形で横たわっていて、その一角に東林寺という古刹がある。台地下は三日月橋から続く車道となっていて、茎崎(つくば市)方面へと向かっている。車道と平行して桜並木の砂利道が続き、更に東側は稲荷川が流れている。水辺の長閑な田園風景が広がっている。

    東林寺。"栗林義長の眠る寺、東林寺"と何かの本に書いてあった。桜並木の砂利道を歩きながら、遠い昔の戦国の世に思いを馳せてみた。

    三日月橋から東林寺城址を望む

    東林寺は、文明18年(1486)牛久城主岡見治部大輔の開基といわれている(他説あり)。やがて群雄割拠の時代に入ると、ここに城が築かれた。東林寺城である。

    牛久城主岡見氏は多賀谷氏への戦略的拠点として次々と支城を築き兵力を配置した。その支城の一つが東林寺城である。東林寺のすぐ裏側が二の丸で、そのやや南側に本丸があった。城主は誰だった.か分からないが、岡見治部大輔直系の者と推測する。

    本丸は舌状台地の先端部にやや近いところにあり、そこは曲輪跡を感じさせる広さがある。本丸から見ると、西側は、眼下に牛久沼を見下ろす絶壁となっていて、沼の先には敵陣である泊崎城(多賀谷氏支城)が望める。東側は現在は水田の合間を稲荷川が流れているが、当時は牛久沼がこの当たりまで食い込んでいたのであろう。さらに南東に目を移すと沼向こうに牛久城が望める。このように東林寺城は東西南の三方向を沼に囲まれた景勝要害な平山城で、いざ合戦となれば、舟を用いられたことが想像出来る。

    二の丸付近。写真右手は牛久沼を見下ろす絶壁となっている。

    やがて、牛久沼周辺で岡見氏と下妻の多賀谷氏との激戦が繰り広げられるのであるが、この戦いで大活躍するのが栗林義長である。

    栗林義長は狐の孫と言われた伝説の武将で、岡見氏の総大将として大活躍する。彼は死後、岡見氏によって、東林寺に手厚く葬られたという。未確認であるが、東林寺の過去帳にそのことが記載されている事から、栗林義長は単に伝説上の人物ではなく、実在したと思われる。東林寺城と、栗林義長寺の関わりをいろいろと推測するのも、面白い。 

    曹洞宗福壽山東林寺

    東林寺は岡見氏滅亡後は一旦廃寺となるが、牛久城を継いだ由良国繁によって太田山金龍寺として再興。由良氏滅亡後金龍寺は本堂を残して龍ヶ崎市若柴へ移転する。その後山口氏によって寛保元年(1741)再び東林寺として再興する。

    東林寺城が、どの時点で廃城になったかは分からない。

    東林寺裏手に大きな二基の五輪塔が建っている。この五輪塔は、本来東林寺とは無関係の墓で、この寺の開基より時代を遡り室町期に造られたものと考えられている。もともとは東林寺の南側に建っていたが土木工事のため、東林寺境内へ移されたのである。

    さて、五輪塔は二基とも像高145センチで地輪部が高く水輪部は円形で火輪部は勾配が大きい。このような形をした五輪塔は平安時代に始まり、鎌倉時代に普及し江戸時代初期まで続いた。

    東林寺五輪塔(市指定文化財)