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  • 牛久宿

    水戸街道の中でも、これほど歴史的に文化的に異彩を感じられるところは他にないだろう。牛久という町は、古くは岡見氏の居城があったところで、戦国末期には由良氏の居城となる。町場は岡見氏の頃から形成されていた。その町場は最初は「卯宿」あるいは「鵜宿」と呼ばれていたらしいが、「牛久」に変じたと言われている。江戸時代には山口氏の牛久藩のお膝元として、また水戸街道の中央に位置する重要な中継駅として栄える。

    牛久宿を有名にした出来事は、なんといっても牛久宿郷一揆である。これは全国に広がる農民一揆のさきがけ的存在で、当時の農民の貧窮を物語っている。また筑波山を本拠とする天狗党の面々が大黒屋という旅籠に逗留した記録ものこっている。

    さらに明治になると、明治天皇の牛久行幸という当時としては一大センセーショナルな出来事があった。それは女化原で行われた近衛砲兵大隊大砲射的演習の視察のため牛久を訪れたのであり、この時代、明治天皇は精力的に日本各地を行幸していたのである。行在所(宿泊場所)跡は牛久町(上町)に今も旧跡として残っている。

    また、牛久宿は文学にも登場する。池波正太郎作品「鬼平犯科帳・雲竜剣」である。小説の中で、長谷川平蔵の剣友岸井左馬之助が牛久宿までやって来て、旅籠柏屋に泊る。柏屋は架空と思われるが、探索のために訪れた正源寺は実名で書かれているから興味深い。

    更に明治以降になると、日本画家の小川芋銭が幼少のころ、牛久宿にあった寺小屋(現在は日蓮宗勧成院)で漢学を学んだと聞く。その芋銭は晩年、城中の牛久沼畔で過ごすのであるが、筆まめな彼は、友人との手紙のやり取りが多かったのだろう。牛久町(上町)にある牛久郵便局(現在の本牛久郵便局)を訪れるのが日常であった。住井すゑも然り。牛久宿の古い町並みを夫の犬田卯と共に歩いている姿がイメージとして浮かんでくる。 

    大黒屋付近

    牛久宿のかたち

    江戸方面からの宿場の入り口直前はやや緩やかな坂道になっていて、登り切ったところに下惣門が建っていた。そこから道幅8mほどの道がまっすぐ北に続き、上惣門(水戸方面からの入り口)までの約800mの区画が牛久宿であった。ちなみに現在のJR牛久駅はここより約600m先で、国道六号線(現在の水戸街道)と合流すると、間もなく右手に見える。

    ある文献に「駅路の出入口両方に途一杯の萱葺の門を建て、山口塁なる事を示せり、相応ある町にして道幅広く・・・」と書かれている。つまり下惣門、上惣門とも萱葺屋根の立派な惣門が建っていて、おそらく門の中央に山口と大きく刻まれていたのであろう。己が領地であることを旅人に知らしめるために。

    牛久宿は下町と上町で構成されていて、中央には宿場の継立(つぎたて)を運営する問屋場(といやば)があり、また正源寺の入り口近くには大名旗本が宿泊する本陣(現、農協)が置かれていた。尚、脇本陣は存在しなかったようである。更に街道筋の両側には一般の武士や庶民が宿泊する旅籠屋、たとえば大黒屋、河内屋、麻屋、坂本屋など15軒の名だたる旅籠屋が建ち並び、その他、茶店、湯屋、鍛冶屋、足袋屋、質屋、建具屋、大工、桶屋、馬喰など様々な商工業者が立ち並んでいた。その数124軒と言われている(天保12年調べ)。ちなみに人口は497人と記録さている。(文化元年調べ)

    一口に旅籠屋と言ってもピンからキリまであり、素泊まりの木賃旅籠屋や飯盛女を置いた飯盛旅籠屋などいろいろであった。飯盛女の仕事は、まず旅人の足を洗うことから始まり、食事時には飯を盛り酒を注ぎ、そして夜になると褥を共にする。つまり接待役という名の売春婦である場合が多かった。文政8年(1825)、幕府は関東取締出役令を発令し、飯盛女が派手な服装をする事や、みだらな風俗をする事を禁じたが、客の奪いあいが続き、なかなか守られなかったようだ。また、湯屋は公衆浴場のことであるが、そこには湯女がいて、湯女はお客の背中を流すだけでなく、売春行為に及ぶこともあったようだ。娯楽が少なかった当時、こういうところには近隣からも小銭を持った男たちが押し寄せたのだろう。とかく当時は、このような遊びに掛かる費用は今と比べると格段に安かった。

    また、牛久宿には角屋という人足請負業があって、常時50人ほどの人足が詰めていた。彼らの多くは貧窮した村々からの出稼人、あるいは主家を失った浪人たちで占められていて、求められればどんな仕事でも従事したのであろう。このように牛久宿には、定住者のほかに、旅人や出稼ぎ人、遊興を楽しむ人が群がり、わずか人口500人弱の宿場は、その規模以上に賑わっていたと想像出来る。そして商店にはあらゆる物産が置かれ、牛久という小さな村は地方経済文化の担い手として栄えていた。

    牛久宿の特徴

    江戸時代の宿駅の主な任務は、公用の荷物の継立(つぎたて)、参勤交代に於ける宿泊場所の確保であり、宿駅が制定された当初は主に公用のものだった。やがて街道や宿駅が整備されると、一般の下級武士や商人までが旅を楽しむ機会が増え、宿駅は彼らの休息や宿泊施設として利用されるようになった。そして、宿駅に人の往来が増え、商品の流通が活発になり、商人や職人などが定住するようになると宿場特有の町空間が出来あがり商業都市として栄える。牛久宿の場合も然り、小規模ながら宿場町として繁栄するのであるが、その実体は民百姓の犠牲の上に成り立っていた。 

    水戸街道のちょうど真ん中に位置し、宿駅としても重要な役割を担っていた牛久宿。牛久宿を語るとき、水戸街道の中でも特出すべきことの一つとして、隣の荒川沖宿と合宿(宿場の任務を共に行う)の形態を採っていたことが上げられる。これは荒川沖宿は牛久宿と同じ牛久藩領であることと、荒川沖村の村高が少なかったため、牛久宿が、荒川沖宿の継立の任務の一部を担っていた。つまり、荒川沖宿では、上りの継立を牛久宿まで行い、下りは、牛久宿の継立が荒川沖宿を経て次の中村宿まで行っていたのである。そのため、牛久宿の負担は大きく、常設する人馬も、水戸街道の人馬の配置は普通、25人、25疋(ひき)の常設が義務づけられていたが、牛久宿に関しては50人、50疋であった。これらの宿場の任務を円滑に行うために問屋場(といやば)が置かれ、宿役人が交代で詰めていた。宿役人の代表格は問屋で、その補佐役の年寄、そして書記に相当する帳付、その他雑役人も何人も詰めていたのであろうが、牛久宿の問屋場業務は慢性的な人手不足で、そのため、助郷村(大名行列時人足を補うために指定されて応援の人馬を負担する近隣の郷村)への依存度が大きかった。

    問屋場は、公用の荷物の継立と助郷の差配が主な仕事で、特に代表格の問屋は責任が大きく、藩の家老や幕府役人との折衝も必要で、村の有力者が勤めるのが常であった。そのため、牛久宿では村の名主、麻屋家が代々仕切っていた。 

    大名行列の時などは、藩から先触(さきぶれ)が問屋場に届き、行列の規模と日程を前もって知ることが出来きた。問屋場はそれによって、定助郷や加助郷を差配した。また、大名行列の規模が大きい時は、本陣や旅籠屋だけでは部屋割が出来ず、寺院を宿泊施設として利用出来るよう手配することもあった。一番やっかいなのは、大名同士の鉢合わせで、格式と体面を重んじる大名の気質を考慮し、大名側とねばり強く折衝し、宿泊が重ならないように調整する必要があった。このように問屋は山口藩領でありながら幕府の公用の仕事をしなければならず、また助郷村の百姓たち不満分子をうまく使う必要もあり、つねに中間管理職的な悩みがつきまとっていた。 

    当時の牛久地方の農村は、過酷な藩の徴収に年貢を納めきれず、耕地を捨てて村を出る農民が多く、荒れ果てた耕地が多かった。それだけに農民たちにとって年貢の負担は大きかったであろう。一方公用人馬の利用頻度は増える一方で、このような状況の中、問屋の麻屋治左衛門は定助郷の少なさを嘆き、数度にわたって助郷村の増加を幕府に願い出た。ちなみに、元文5年(1740)の取決めによると、牛久宿の定助郷村は7ヶ村、荒川沖宿3ヶ村となっていた。麻屋治左衛門の要求は認められ、加助郷村が増加されたのであるが、新たに加わった助郷村は牛久宿迄の距離が遠かったため、何かと難儀なことであった。この増助郷が問屋と助郷村の軋轢を生み、やがて牛久一揆という農民の反乱へと発展するのである。