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  • 遠山城跡

    その一

    旧水戸街道の成井一里塚を過ぎ坂道を下ると、一面水田地帯が広がる。ますぐ前方に見える小高い丘は、まるで牛久沼を遮るかのように立ちはだかっている。行く手には谷津の中を水田が広がり、水鳥が数羽戯れている。小高い丘に続く坂道は、太く一直線に伸びていて、台地下のねがらの道と立体交差している。まるでその先には、御殿でもあるかのような錯覚をあたえる。坂道を恐る恐る登ると、まず、遠山集会場があり、道はそこから細いS字のように曲がった下り坂となり、国道6号線へと続いている。

    丘の上には十数件の集落があり、狭い台地上に農家と思える旧家が、まるで肩を寄せ合うかのように建っている。何ともいえない雰囲気が漂う。いったいこの雰囲気は何だろう。集落に立ち入った瞬間に感じる不思議な感覚。それは、よそ者を寄せ付けない強固な雰囲気。そして丘の上にそびえている木々までが頑固に突っ立ているかのように思える。

    集会場の前の細い道を北側に進むと、右手(東側)は崖となっていて、まさに台地上を這うかのように伸びた径が続き、やがて鹿島神社と書かれた鳥居が見えてくる。神社の周りは杉の木が数本、あまり人が訪れないのであろうか、境内は青々としたコケが生えている。鳥居の向こうに見える建物は、本殿と言うより、まるで氏神様の祭壇だ。しかし「古さだけはどこにも負けないぞ、」と意思表示しているかのように建っている。狭い境内はすっぽりと土塁に守られた形をしていて、その周囲には馬頭観世音などの石仏が数個あり、それぞれに安政七年、寛政十二年、享保元年と刻まれている。各々の時代を生きた人々の息吹が感じられる。

    実は、この小高い丘全体は遠山城という古い城郭があったところで、牛久沼を見下ろす軍事的要塞だった。それは江戸時代より溯ること300年、室町時代初期に造られたといわれている。

    遠山町、鹿島神社

    その二

    室町時代初期、長尾憲景は牛久沼を見下ろす景勝の地遠山郷に居城を築き常陸国河内郡南部を支配した。現在の牛久市西部から伊奈町にかけての郷や村である。もともと、この地域は小田氏の所領であったが、小田孝朝が鎌倉府に反旗を翻し、所領の大半を没収された。鎌倉府における絶大な権力を持っていた山内上杉氏は、その没収した所領の一部を長尾憲景に分け与えた。長尾憲景は山内上杉氏の家臣で、鎌倉府侍所の奉行人を勤めていて、上杉氏からの信望が篤かった。こうして、長尾憲景は鎌倉の荏柄谷に屋敷を構える一方、常陸国遠山郷にも居城を築き、この地方の運営を始めた。そして当時の牛久市域と鎌倉は憲景を介して太いパイプで結ばれる事になった。そのための大きな役割を果たしたのが鎌倉街道下ノ道で、今でも牛久市地域には鎌倉古道ど呼ばれる古い街道が断片的に残っている。

    余談だが、鎌倉街道とは、"いざ鎌倉へ〟を合言葉とした鎌倉時代に作られた軍事的な道路で、ちなみに、上ノ道は信濃、越後方面に、中ノ道は奥州方面に、下ノ道は江戸から松戸、石岡方面に延びていて、いずれも鎌倉を基点としていた。

    さて、順風満帆だった長尾憲景にも悩みがあった。跡継ぎがいないのである。そして自分自身も病気気味で、これ以上の領地の運営の困難さを悟った。彼は折角所有した領地を山内上杉氏に返すのであるが、この時、強い願いが込められていた。縁者の臼田氏に引き継いでもらいたいと。この願いは山内上杉氏に聞き届けられた。遠山郷を含めた長尾氏の所領は総て臼田氏に与えられたのである。

    実は臼田氏も山内上杉氏の家臣で、信太郡、特に霞ヶ浦西岸一帯の領地を与えられていた。つまり長尾氏と臼田氏は共に山内上杉氏の家臣で、更に領地が近い事もあって婚姻関係によって、いっそうの連帯感を強めていた。おそらく、憲景の姉か妹。あるいは娘を臼田氏に嫁がせていたと考えられる。これによって、臼田氏は河内郡の西部を加えた広範囲な領地を支配することになった。しかし、遠山城がそのまま臼田氏の居城になったとは考えにくい。現在の美浦村に臼田館という居城を構えていたため、遠山城はその出城として縁者か家臣を住まわせていたのであろう。

    戦国期になると臼田氏は常陸国南部で勢力を振るっていた江戸崎城の土岐氏や牛久城の岡見氏と連携を深めていた。岡見氏は多賀谷氏との戦いに敗れ滅亡するが、羽柴秀吉の天下統一に際しては、臼田氏と土岐氏は共に小田原北条氏に従って秀吉の侵攻を阻止しようとする。しかし時勢の流れには勝てず、両氏は事実上の滅亡を迎える。その後の遠山城がどうなったかは分からない。

    遠山城跡付近

    その三

    はたして、遠山城の本丸はどこにあったのだろうか。総ては推測の域であるが、本丸は、丘の南端の牛久沼が一望出来る場所だったのだろう。その場所は、丘の中でも一際高い平坦な場所で、現在は竹林に囲まれた畑になっている。その場所を少し下ったところに遠山集会場があり、その前の道は掘り切り跡と思われる。そして鹿島神社へ続く舌状台地上の随所に土塁が残っている。恐らく二の丸があったのだろう。そして三の丸の存在は・・・・

    遠山城跡をあとに、再び旧水戸街道に戻り牛久方面へ向かうと、向台小学校前の三叉路に出る。三叉路を直進すると、緩やかな下り坂が常磐線の銅像山踏切まで続いている。

    実はこの三叉路にはもう一方に曲がる隠れた道がある。三叉路の西側を良く見ると目立たないけれど雑木林に向かって細い坂道が有ることが分かる。この道を一歩踏み込むと右側は小規模の墓地があり、反対側は雑木林が生い茂った藪となっている。更に進むと、畑が広がり、前方に遠山城跡のある高台を望むことが出来る。この道は、現在は農作業のためだけの道であるが、中世においては遠山城本丸と三の丸を結ぶ軍事的に重要な道だったことが考えられる。実は、墓地前の藪の中に、向台土塁があることが専門家によって確認されている。更に向台小学校から300メートル先を、車道を南北に横断する形で、桜塚土塁跡がくっきりと残っている。これらの土塁と、遠山城との関連は、断定は出来ないが、恐らく向台小学校付近に遠山城の三の丸があったのだろう。いずれにしても遠山郷防衛のための土塁と考えられる。

    向台小学校前三叉路