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  • 牛久城跡

    岡見牛久城

    築城

    牛久市民及びその周辺に在住の方ならご存知であろう岡見という地名.。竜ヶ崎から土浦へ向かう県道の中間地点に所在するあの岡見こそ、岡見氏発祥の地である。つまり小田城主治久の次男が河内郡岡見村(現在の牛久市岡見)に封じられてからその地名を採り岡見氏としたのである。

    時は戦国武田信玄や上杉謙信、織田信長や今川義元などが台頭し、群雄割拠著しい時代、 常総の地でも佐竹氏、結城氏、小田氏など豪族が勢力を誇っていた。岡見氏はその中の小田氏の分家である。

    岡見城を拠点としていた岡見一族は次々と勢力を伸ばし治久の三男が牛久の地を固め牛久城主として登場したのが牛久岡見氏の最初であるが、築城はもっと後のことである。それは岡見弾正が河内 郡の中心地郡役所跡に築城したといわれ、年代は定かでない。けれど弾正は天正元年(1573)に小田氏春の旗下として佐竹勢と戦ったことが記されているのでそれ以前であろう。他説として那賀郡国井氏の八代目岡見頼勝(江戸崎城主土岐治頼の次男)が天文初年から永禄年間にかけて築城したともいわれているが、この時代の記録は曖昧である。

    岡見弾正

    岡見弾正はもともと小田氏春旗下の武将であった。早くから小田勢の先鋒として戦いに参加した。永禄12年(1569)小田氏春が兵一千人を率いて筑波東の小幡(八郷町)に出て柿岡(八郷)付近の侵攻を始め佐竹勢の太田三楽、梶原政影等と戦いを開始した時も,その先鋒となって戦った。

    牛久城のかたち

    牛久沼東岸に迫り出している舌状台地の先端に位置した平山城の形体をとった大規模な城郭で、本丸、二丸の館、その周りに土塁、空堀で固められた約3ヘクタールの本体部分と、北側に築造された広大な外郭部分で構成されたスケールの大きいい城郭であった。二の丸の断崖上から見ると沼の対岸に逆さ富士が望める景勝地であり、その頃は周囲一帯が沼地で自然の防濠となり、きわめて要害な地であったことが想像出来る。

    牛久城における大規模な城郭の必要性は、おそらく理由の一つは牛久城下やその周辺に住む住民が戦火に晒された時の避難場所の確保の為と思われるが、もう一つの理由は井田、高城、豊島氏らが在番にやって来た時、彼らが在留する場所の確保の為と思われる。彼ら在番衆の寝泊りだけでなく、それに伴う食料や武器などを収納する倉庫を建てる為、広大な土地を要したのである。

    牛久城跡本体部分全景当時、水田部分迄湖水は達していた

    牛久在番

    北条氏対佐竹氏の対立の影で、岡見氏対多賀谷氏が代理戦争の如く対立していた。つまり北条氏は佐竹氏攻略の足掛かりに岡見氏は必要で、一方岡見氏は多賀谷氏に対抗する為北条氏の力が必要があった。やがてその関係は岡見氏にとっての北条氏の依存渡が強まり、牛久在番を置くことになる。つまり北条氏支配下の各藩は交代で牛久在番を置き警備にあたった。彼らの居住地が本丸北側を大きく占めていたのである。

    大手門跡

    大手門は、堀切りのほぼ中央に「喰違い虎口」と「桝形馬出し」を備えた厳重なものであった。牛久沼を見下ろす城中町の一角に市指定文化財として僅かに残って入る。

    牛久市城中町に今も残る土塁跡

    牛久城の支城及び知行地

    岡見氏は多賀谷氏への戦略的拠点として次々と支城を築き兵力を配置した。足高城(伊奈町)、東林寺城(牛久市)、矢田部城(つくば市)、板橋城(伊奈町)、若柴城(龍ケ崎市)などである。知行地として野掘(伊奈町)からくりかけ(つくば市)までの八十六の郷村を領していた。これらの知行地は主に西方、小野川流域から東西谷田川流域にかけて広く分布していた。 東には江戸崎城主.土岐氏が北には土浦の菅谷氏が、南には布川城の豊島氏がいた為、岡見氏の勢力は主に西へ伸びて行った。

    足高城址(伊奈町城中)

    東林寺城址(牛久市新地)

    栗林義長の活躍

    栗林義長は幼名を竹松という、出生はさだかでないが、民間伝承では女化ケ原の狐の孫といわれている。

    京の都で兵学を柳水軒白雲斎に学び、名前を柳水軒義長という名前をいただく。やがて出生地常陸の国に戻り、牛久の城主岡見氏の武将栗林左京亮の門をたたくと記録されているが、栗林左京亮は、もしかすると牛久支城の足高城の武将だったかもしれない。義長はその後栗林氏と養子縁組し栗林義長と名のる。

    天正11年(1583年)14年頃のことである。幾多の戦いで頭角を顕わした義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。総大将になった義長は、多賀谷水軍との戦いでは諸葛孔明のごとく火攻め計を考える。戦場は小貝川、当時は水量も多く川幅も広かったのであろう、水軍戦である。義長は夜明け前から味方の水軍を葦の中へ潜ませて敵の来るのを待ち伏せし、一方多賀谷の水軍は数十艘の舟を連ね、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら川を下ってきた。

    義長は風を計算しチャンス到来とばかりに狼煙を上げさせ、一斉に襲いかかる。火矢を雨のごとく射かけ油壺を投げ込み敵は大混乱に陥いり多くの負傷者や戦死者を出し敗走し義長軍は大勝利を得たのである。

    さらに上総、下総で勢力をはっていた千葉頼胤は佐竹氏と共謀し北条方の小田氏、岡見氏を挟撃しようとしたが、義長はそれを見抜き、大軍を率いて下総地方に攻め入りこれを平定す。

    佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し、江戸崎城を救った。

    こうして幾多の戦場で勝ち進んだ武将も病には勝てず、ついに天正15年(1587年)その生涯を閉じた。享年58才であった。没後岡見氏によって東林寺(牛久市新地)に葬られた。

    栗林義長を失った岡見氏はやがて滅亡を迎えるのであるが、それはあまりにも急速な出来事であった。

    小貝川

    岡見氏の終焉

    小田氏滅亡後はそれに変わって岡見氏が勢力を振るい、天正5~6年ころ最盛期を向かえるが、つかの間の栄華であった。

    下妻城主多賀谷重経は北条氏を破り、その勢いで矢田部、足高、牛久の諸城を攻め立てる。天正14年まず矢田部城落城、続いて足高城に襲いかかったが、足高城主岡見宗治は守備を固めて篭城、牛久、若柴の城主に援軍を求め善戦したが天正16年力尽きて落城し城を脱出し牛久城へ入る。その後宗治は牛久城主岡見治部大輔と力を合わせて戦ったっが、治部大輔は手兵五騎を従え、茎崎・高崎へ落ち延びる。一方宗治は土浦方面へ落ち延びる(死亡説あり)。こうして岡見氏の牛久城は終焉を迎えた。

    その後の岡見氏

    岡見治部大輔はその後江戸崎に潜伏していたと伝えられているが定かでない。それからまもなく越前國に移り結城秀康に仕官して500石の知行を与えられる。彼は余生を越前で送り、元和3年(1617)その地で生涯を閉じた。

    岡部宗治は牛久落城とともに死亡という説もあるが、一方暫らく土浦周辺に潜伏し、その後慶長6年(1601)に下総布川の松平信一が土浦城主になった時、これに仕えたという説もあり、ようするにその後の彼の足跡は明らかでない。

    従軍覚書

    茎崎町史を調べていたら面白い記載事項があったので紹介する。

    多賀谷氏配下の野口豊前という武人が口頭でのべたものを役人が覚書として記録したものである。

    このような覚書は、己が褒賞を少しでも多く貰いたいが為、多少の偽りが含まれる場合が多く信憑性は低いが、しかし当時の戦国武士たちの心情や戦いの状況を理解する上で重要な記録である。

    以下茎崎町史(つくば市)より原文のまま転記したものである。天正十一年(1583)九月八日矢久・矢田部での合戦で岡見方は鉄砲を使用したが、発砲音に驚いた多賀谷勢がかえって興奮して敵の首を三百八十程取った。天正十七年(1589)某月某日多賀谷勢が矢田部の城に在留 している時(この時矢田部城は多賀谷軍に占拠されていた)白硲(つくば市)で牛久勢と対戦し、鉄砲で負傷した。天正十七年(1589)九月二十四日足高城下落とされた板橋を槍二本の上に敷き直して攻め入った。天正八年(1580)某月某日下妻衆(多賀谷氏)と小田原衆(北条氏)が矢田部城を取り合った時、下妻衆が橋を踏み外して堀底に落ちてしまった。天正八年(1580)某月某日牛久東輪寺(東林寺)で下妻衆の糸賀大蔵が牛久衆の槍で馬から突き落とされ殺されそうになたのを救った。又、当方の槍がを蹴落とそうとした敵を下妻衆の小貫殿助が討ち捕った。天正十六年(1588)十二月二十八日下妻衆が牛久の東輪寺城を攻めた時、味方の飯村豊後が馬から落ちて危険であったので救出した。又、小茎(茎崎町)の堀の際で敵に追われたが逆に首を七つ取った。天正十六年(1588)某月某日矢田部の坊地(茎崎町)に敵(小田原か牛久)が船で上陸せんとしたので、坊地の山へ出かけて行って阻止した。天正十五年(1587)某月某日足高城を水攻めにしようとした時、足高衆と槍合戦をしたが、味方がひるんだため、多賀谷信濃以下七名が討たれた。自分等も敵の首を七つ取り、主人重経より礼状を下された。


    由良牛久城

    岡見氏滅亡後、牛久領の領主として入城してきたのは、由良国繁であった。彼はもともと上野国金山城(群馬県太田市)の城主で、上野南東部の代表的な領主であった。ところが天正13年(1585)突然北条氏に居城の明渡しを要求され、これを拒否し小田原城に連行された。国繁の母赤井氏は家臣たちと共に金山城に篭城するも北条氏の軍事力の前に敗北す。その後国繁は桐生城(群馬県桐生市)へ退去させられた。以後国繁は北条氏の配下として不本意ながら秀吉に敵対することになるのである。

    これより5年後の天正18年(1590)北条氏は秀吉によって滅亡する。国繁もこれに準じて滅亡なることを余儀なくされたのであったが、これを救ったのが母赤井氏である。

    彼女は新田義貞の流れを汲む由良家が断絶することに忍びがたい思いを抱いていた。前田利家が上州上野へ入ったおり、赤井氏は孫貞繁を伴い豊臣方に馳せ参じ、不本意ながら北条方陣営として戦ったむねを伝え、由良家の存続を願い出る。利家はその願いを聞き入れ、秀吉へ上奏する事を約束する。その願いは秀吉に聞き届けられ、由良国繁はは常総の地、牛久城の城主となる。この時の前田利家の由良氏への返書を見ると、由良氏一族は新田貞義の後裔で名族であるため、惜しんで存続を認めるというものであり。これは赤井氏が由良氏と新田義貞との強いつながりを主張したためである。

    しかし由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許可されなかった。その真意は今も謎である。慶長六年(1601年)山口重政が由良氏に代わって封じられ明治維新の廃藩置県までこの地を領したが、城は持たず陣屋風の建物であったという。

    国繁の母赤井氏

    金山城主由良成繁の室、俗名は輝子という説があるが定かでない。天正6年に成繁没後は揺れ動く時勢の中で由良家を城主のごとく支える。

    秀吉から由良家へ与えられた領地5,400余石は赤井氏へのものであった。彼女は領地を子の国繁へ譲り自らは得月停という隠居所を設け妙印尼となる。得月停はその後、妙印尼開山とする曹洞宗得月院となり現在に至っている。

    得月院裏手にある妙院尼の墓、五輪塔

    由良氏の領地

    由良氏の石高は最初5,400石程であったが、加増され約7,000石となる、領地は以下の通りである。

    岩崎村(茎崎町) 菅間村(茎崎町) 赤塚村(つくば市) 堀内村(つくば市)下原村(つくば市) 新牧田村(つくば市) 稲岡村(つくば) 中島村(つくば市) 牛久村(牛久市) 洒島村(牛久市) 岡見村(牛久市) 猪子村(牛久市) 東大和田村(牛久市) 東猯穴村(牛久村) 高岡村(伊奈町) 足高村(伊奈町) 野堀村(伊奈町) 狸穴村(伊奈町)

    尚、その後由良氏の所領は二度にわたる公収という憂き目に遭い6,000石を失うが、東猯穴村だけは終生由良氏の領地として幕末まで続いた。現在のJRひたち野うしく駅付近である。

    由良氏一族の墓は新田義貞の墓と共に竜ヶ崎市若柴金竜寺に今も残っている。由良氏の領地の大部分を引き継いだ牛久藩主山口氏の力の拡大にともない、牛久藩内新地にあった金竜寺は幕府の庇護のもとに牛久沼対岸の若柴へ移った。