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平貞盛

たいらのさだもり

平貞盛概略

延喜17年(917年)~永祚元年(989)他説あり
平安中期の武将。通称は常平太あるいは平将軍、字名は平太。父は平国香(くにか)、祖父は平高望(たかもち)です。
上総介に叙任しやがて関東に下向します。父国香の死後常陸大掾に就任します。

将門との対峙

源護(みなもとのまもる)と平真樹(まき/まさき)との筑波山麓に領地を保有する両氏の土地を巡っての争いが発端でした。平国香の妻は源護の娘であり、国香は常陸大掾の地位を源護から受け継ぎます。一方、平将門の妻は平真樹の娘でした。こうした関係から、国香と将門は両氏の争いに巻き込まれ、国香は将門軍によって居館の石田館が焼き討ちされ命を落としたといわれています。

石田館は現在の地名でいうと茨城県筑西市東石田ですが、当地(龍ケ崎市川原代)の伝承では平国香は藤代川(現在の龍ケ崎市立城西中付近)の戦い(承平5年-935)で討ち死にしたとも自害したとも伝えられていて、龍ケ崎市川原代安楽寺の近くに、戦死した国香を慕う何者かによって建てられた供養塔があります。

その後、不本意ながら朝敵となった平将門は新皇を自称し、関東に独立国を宣言しました。これを平将門の乱(承平天慶の乱)といい、この乱討伐を指揮したのが国香の後を継いで常陸大掾に就任した平貞盛です。

平貞盛にとって将門は手ごわく、当初は連戦連敗が続きました。ところが母方の縁者である下野大掾藤原秀郷の加勢を得て形成がが逆転し、天慶3年(941)2月14日「北山の決戦」にて将門に勝利し、この乱を平定することが出来ました。

貞盛はその功績が認められ従五位上(正五位上とも)に叙せられました。後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ平将軍と称しました。

金龍寺(龍ケ崎市若柴町)参道入口の西國順礼碑には、平貞盛が星大明神(若柴町星宮神社)に祈誓したから強敵(平将門)を滅ぼすに至ったという意味のことが刻まれています。こうしたことから、天慶四年(941)貞盛は星大明神に感謝を込めて社殿を建立したと伝えられています。詳しくはこちら若柴の散歩道~星宮神社

平貞盛の末裔

平貞盛は甥の維幹を養子に迎えて常陸大掾職を継がせます。筑波郡多気に本拠を置き勢力を拡大し常陸平氏の地固めを行います。その後、律令制の官職であった大掾職は、常陸平氏で世襲され、やがて常陸平氏のことを大掾氏といわれるようになりました。

一方、貞盛の四男維衡が伊勢に移り伊勢平氏の祖となり、後に平清盛を輩出します。さらに室町時代になると伊勢新九郎こと北条早雲が小田原に移り、戦国大名小田原北条氏の祖となります。

平貞盛 家系図

余談

平将門を共に倒した藤原秀郷も乱平定の功績が認められ、従四位下となり下野・武蔵2ヶ国の国司と鎮守府将軍となり勢力を拡大し、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出します。その中に、下総国古河を拠点とし、常陸国南部を統治し龍ケ崎の祖といわれている下河辺正義も含まれます。

また、奥州藤原氏の遠祖にあたる藤原頼遠は藤原秀郷の義理の曾孫に当たるといわれています。