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  • 成井一里塚

    若柴宿から牛久方面へ向かう途中の落花生畑や芋畑に囲まれた長閑な台地上の成井地区(牛久市)に、真新しい案内板と石碑が建っているのが目に付く。日本橋から数えて15番目の一里塚、成井の一里塚の目印である。道の両側に僅か塚のかたちを留めているが、案内板がない限り、誰もそれが一里塚だと気がつかないだろう。
     案内板によると、成井の一里塚は平成13年6月22日に牛久市の指定文化財に指定されている。そして石碑の建設は平成14年3月1日となっている。 

    一里塚の本格的な始まりは1604年(慶長9)で、徳川家康が秀忠に命じ、各街道の整備のため里程標を作らせたことに依る。水戸街道はそれ以降整備されていので、成井の一里塚が作られたのは更にそれより後と考えるのが普通である。ところが信じがたいことだが、更に案内板を読むと「この一里塚は永禄4年(1561年)には既に存在した」と書かれている。戦国のまっただ中である。一里塚の歴史を調べてみると、最初は古代中国で始まったらしい。日本では織田信長が分国内に作らせた一里塚の存在がある。この事を考えると成井の一里塚も、一里塚という名称がふさわしいかどうかは別として、永禄年間に作られていたとしても不思議ではない。しかし、誰が何の目的で。
     水戸街道が整備される以前にも古道と言われる街道の存在があった。若柴宿から牛久宿を結ぶ街道も戦国時代は、若柴城と牛久城を結んでいたに違いない。そして牛久城から先は、城下の手前を右折し、土浦、更には石岡方面へと続いていたのであろう。一方若柴城の先は龍ヶ崎、江戸崎、更には千葉方面へと、江戸時代の水戸街道とはまったく別のルートを採りながら街道は続いていたのであろう。その中で成井の一里塚は、ちょうど若柴城と牛久城の中間地点に位置するのである。恐らく牛久城主岡見氏の命令で、盛土、あるいは小屋のような建造物を建てていたのかもしれない。それは後の一里塚の役割と違って、お互いの城主への伝言を受け取る中継場所となっていたと考えるのだが、あくまでも憶測である。そして江戸時代に水戸街道が整備され、各地に一里塚が設置されるようになると、偶然にも成井の一里塚は日本橋から数えて15里目に当ったのか・・・・?。

    史跡・成井一里塚の形態は、まず、道の東側(牛久方面に向かって右側)は奥行き10m、幅12m、高さ1.2m。茅と雑草で覆われていて、実に殺風景と言うか、たんに土が盛り上がった状態としか思えない。ただ遠くからの見通しが西側よりも良く、石碑と案内板はこちら側に建っている。一方西側は、奥行き13m、幅6m、高さ2m(東西いずれも目測)で、道に面した部分の欠落が著しいが、奥行が深く、盛り上がった部分に松が数本と椿が植林されている。栗林と隣接するため、あまり目立たないが、僅かながら一里塚の風情を偲ぶことが出来る。
     多くの一里塚が長年の時を経て風化、あるいは道路拡張工事のため姿を消してしまったことを思うと、ここは道の両側にそれらしき形を留めていて、貴重な歴史の証人と言えるだろう。 

    さて、一里塚とは、名前が示すとおり里程標であり、馬やカゴの料金計算の目安となっていたのだが、目印として榎や松が植えられていたため、旅人の格好の休息場所となったのは言うまでもない。その当時の人の歩行距離は1時間4キロ、1日の歩行距離は平均約33キロで、車社会の現代人からみれば想像も付かないぐらい健脚であった。行く先々で人情や風情にふれながらののんびりした旅。喜びとともに心身の疲労も激しく、一里歩けばまたその先の一里と、心に刻みながら歩き、行く手に聳えている榎を見つけたときは、ああ、一里塚だ!と安堵感と喜びをかみしめ、履きつぶしたワラジの交換を考たりしたのだろう。風流な旅姿であった。