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女化原の狐女房譚 

女化の狐伝説は郷土の民間伝承として広く語り継がれているが、女化神社発行の『縁記』や『利根川図志』『東國闘戰記見聞私記』『東國戰記寛録』などの文献にも栗林義長伝として数多くの話が残されている。それらのお話を比較すると、背景や登場人物はだいぶ違うが、一応に話の大筋は狐女房譚と呼ばれるもので、忠七(忠五郎)に命を助けられた狐が人間の娘に化けて妻となり恩返しをしするストーリーである。女化の狐女房譚の興味深い点は、更に話が子供の代、孫の代へと展開するところにある。そして栗林義長は虚実入り乱れて狐の子孫として登場する。

『利根川図志』

『利根川図志・巻五栗林義長傳』によると、
「常州岡見の長臣、栗林下總守義長といふは、同國河内郡根本村の農夫 忠七の三男、竹松の孫なるよし伝傳ふ。

根本という里に一人の農夫あり。名を忠七というふ、、、、、」いう書き出しで始まっている。

この忠七が根本が原で猟師に撃たれようとした狐を助けるのである。忠七は文献によると忠五郎の場合があり、また民間伝承では栗山村の覚右衛門となる場合もある。

「折しも秋の末つかた、女房は庭の方をうつうつとして詠め居けるが、涙をながし、われ思わずも人間に相なれ、きのふと思ひしが、もはや八とせを過すうち、三人の子迄設けし事なれど、浅ましきは根本が原に年經たる狐あり。ひとたび人にさとられては、人間の住居はならず」

この章は忠七に助けられた狐が人間の女に化け、忠七の妻となり子まで設けたが、正体を曝すことを恐れ自ら身を引く様子を語っている。

このお話では人に悟られる前に自ら身を隠す事になっているが、他の文献や伝承では、不覚ににも子供らの前で正体を現してしまう、となっている場合の方が多い。

「みどり子の母はと問はば 女化の
原になくなく 臥と答へよ」

この歌は母狐が姿を消す前に詠ったとされる歌で、誰が作ったのか悲哀に満ちていて、他の文献でも一応に同じである。

更に続けて「さて忠七は三人の子供を養育し、後に三男の竹松成長の後、京都に行きて身を立、其孫十二歳にて古郷なつかしとて關東へ尋下りしに、信州の山奥にて道に迷ひ異人に逢ひ、其所に五年を送りし内、天文地理軍學文武の道に達し、十七歳にして常陸の國へ來りける。爰に岡見の臣に、柏田の住栗林左京と云者あり。一人娘有ける故、此を聟となして栗林次郎と名付、後に下總守義長と號し、關東の孔明と稱しける」

そして、最後の部分は「是より後根本が原を、をなばけの原といふ、今女化稲荷の社あり」となている。

「   」内は原文通り。
利根川図誌

利根川図誌

『東國闘戰記見聞私記』

戦記ものとしては、『東國闘戰記見聞私記』の他に『東國戰記寛録』があり、栗林義長の英雄伝が大きくクローズアップされていてるが、内容は殆ど同じである。『利根川図志』と比べても、母狐が姿を消す前に詠った歌はまったく同じで、「みどり子の母は~~」となっている。『利根川図志』では自ら身を引くが、ここでは菊の花に見ほれて呆然としていたため、子供らの前で不覚にも尻尾を見られてしまう。

尚、これらの軍記物に於いては女化原が重要な戦場になったことも記されている。また、栗林義長は女化原の狐の子孫と言われ、戦略的な戦いは関東の諸葛孔明と喩えられ大いに活躍する。岡見家存亡を掛けた戦いでは戦功が大きく、天下制覇も夢ではなかったが、秀吉の小田原攻めの前に病没した。そして彼の死後まもなく岡見家は滅亡した。となっている。

『常州女化稲荷大明神縁起』

牛久沼のほとり、野口屋に伝わる文書『常州女化稲荷大明神縁起』によると、根本村の忠五郎(忠七)の祖先は、関東管領家の山内上杉家の家臣大徳忠右衛門といい、「算筆の達人、早割の名人」であったが、武家として出世がおぼつかないと主家を離れ、大徳村(現竜ヶ崎市)に住居を定め、前記の術を指南して暮らしていたが、忠五郎の父の代に度々の水害から居を根本村に移したという。稲荷の御宮・拝殿の建立に付いては、年代は示していないが、栗林義長が岡見家、相馬家、北条家、その他隣国の地頭より寄進を受けて建立し、毎年11日と午の日を縁日に定めたとある。

また、義長は天正18年(1590)2月初午に63歳で病死と記されている。

民間伝承、狐女房譚

昔、貧乏なカクエモン(覚右衛門)という人がいた。暮らしが楽でないので、どこかに精米に雇われて、米つきに行った。その帰りに、女化原を通った。するとそこの木の根本に狐が昼寝をしている。傍には狩人がその狐を撃ち殺そうそうとしていて、カクエモンは一つえへんと大っきな咳払いをした。すると狐は目を覚まして逃げていってしまった。カクエモンは狐を助けるぐらい優しい人だったので、狐はきれいな女の人に化けて、カクエモンの家に「道に迷って仕方ない」といって訪ねて来た。娘はよく働くのでそのまま嫁に入り、忠太郎と子供二人が出来た。昔のことだから、田植えが大事だったが、カクエモンの家は夜中に狐が田植えをして朝起きて見るとすっかり終わっている。また狐が「つつっぽになれ、つつっぽになれ」とかくてれていうと、検見に来たとき少しも稔っていなかった。しかし、刈り取ると稔っていて、あるとき、座敷を尻尾で掃いているのを子供に見られてしまった。狐は正体を知られたので、別れの歌を詠んで消えてしまった。狐はお稲荷さんの裏に塚があってそこに入ったという。その伝説で、女に化けた狐を祀って女化神社になった。

注釈:「つっぽっぽ」 穂の出ない稲のこと


紹介した伝承では、狐を助けるのはカクエモン、つまり栗山村の覚右衛門となっているが、民間伝承ではもう一説、根本村の忠五郎の場合もある。民間伝承の特徴は、竜ヶ崎周辺が農村地帯であったことから、次のように稲作に対する農民の願いが色濃く込められている。

狐が仲間を連れてきて一晩で田植えが終わっている。
検分時は不作だったが、刈り取る時はいっせいに穂が出る。

農家にとって辛い労働の田植えが一晩で終わって欲しいという願いや、豊作であっても年貢米を軽減して欲しい。などなどの願望が込められている。

栗林義長は実在の人物である。或いは、それらしき人物がいた、と言い替えた方がいいのか、彼の死後は牛久市新地町の東林寺に手厚く葬られたと伝えられている。

岡見氏は当時小田原北条氏の支配下の元で戦乱の世を戦っていた。小田原城主の北条氏尭は義長の戦略的才能を見込んで総大将に任命した。しかし彼は、義長の身分が低いため統率力に欠ける事を気遣い、心霊に守らた不敗の男として不敗神話を作り上げた。その事によって義長は配下から絶大な信頼を得る事が出来た。

その心霊がつまり、狐の子孫として言い伝えられ、彼自身も自らを狐の子孫であると思い込むようになった。

そして、時を隔て栗林義長伝は狐女房譚として世に広がった。

女化原の伝説

キツネの恩返し

根本村の忠五郎は土浦へむしろを売りにいった帰り道、高見ヶ原の山道で白キツネを鉄砲で狙っている猟師を発見。忠五郎は大きなセキをしてキツネを逃がしてやった。その猟師は怒り狂ったが、忠五郎はむしろを売ったお金を差し上げて事無きを得た。

その夜、忠五郎の家へ美しい娘が夜道を迷ったので泊めて欲しいと訪ねてきた。八重というその女性はその後仕事を手伝い、いつしか二人は夫婦になり、3人の子供が出来た。ある日、長女が末の子を抱いて寝ている母親がキツネの姿をしているのに気がついた。八重は自分の正体が見破られたと知るや高見ヶ原の原野へ逃げ去った。忠五郎は、憐れに思いこの近くに祠を建て、女化稲荷として祭った。そしていつしかこの付近は女化原と呼ばれるようになった。

女化稲荷奥の院

キツネの恩返し続編その一

忠五郎の長男亀次郎は貧しい百姓で毎年年貢米の供出に苦しんでいた。

その年の亀次郎の稲作は特別できが悪く、稲穂どころか水田はまだ青々していた。そんな時、年貢の量を決める役人がやってきて、この散々たる状況を見て年貢米を免除するよう決めた。役人が帰ったあと亀次郎の水田はなんと稲穂は黄金色に輝いているではありませんか。これは女化稲荷に祭られたキツネのご利益と考えへ、その後百姓達はこぞって五穀豊穣の祈願をした。

キツネの恩返し続編そのニ

忠五郎の次男竹松は祠から聞こえてくる母の言葉を聞いた。「私があなた達の守り神になってあげる、都に上がって公家に使えなさい」母の言葉を信じ竹松はその通り都に上がった。そして年月が経ち、竹松の子の千代松は神童と呼ばれるようになり、やがて常陸に帰った千代松は牛久城主岡見氏の武将栗林左京亮の婿養子となり栗林義長と名乗りさらに立派な武士へと成長した。

時は戦国末期、彼は武将として常陸、下総を一体を制覇しその戦いぶりは素晴らしく、「神霊の宿る特別な男」と思われ、自分自身を祖母に守られた幸運な男と評した。

そして義長は祖母が祭られている祠近くに女化神社を建立した。

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