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空海伝説

泊崎大師堂

空海(弘法大師)は、平安初期の大同年間(806~810)にこの地を訪れ千座護摩を修め、その場所に泊崎大師堂が建てられたと伝えられている。

佐貫駅方面から見ると、ちょうど牛久沼対岸の突き出しところに位置している。茨城百景にも選ばれていて、ここから見下ろす風景は、180度の大パノラマに、神秘的で静寂な沼が広がっている。

泊崎大師堂

所在地 つくば市(旧稲敷郡茎崎町)泊崎

交 通 常磐線佐貫駅、及び牛久駅より車で15分

空海とは

平安初期の僧。真言宗の開祖で、俗姓佐伯氏。幼名真魚(まお)という。空海というより諡号(しごう)弘法大師の方が親しみやすく一般的である。

各地を転々としながら修行を行い、其の為か全国津々浦々に空海に纏わる伝承が伝えられている。この牛久沼畔泊崎においても然りである。

延暦二三年より、唐にて真言密教を学ぶ。大同元年に高野山に金剛峯寺を建立。

書にすぐれ、三筆の一人といわれ、弘法も筆の誤りなどのことわざの語原になっている。著に「三教指帰」「文鏡秘府論」「文筆眼心抄」「篆隷万象名義」「性霊集」「十住心論」「秘蔵宝鑰」「即身成仏義」、書簡「風信帖」などがある。

(七七四~八三五)讚岐(香川県)の人。

当時の牛久沼

昔は旧鬼怒川(現小貝川)が常に氾濫し、沼はそのまま広範囲な湿地帯となっていた。人々は小船に乗って沼の周囲を行ったり来たり、葦の群生に櫂を取られることもあっただろう。筑波山は今も昔も変わらない姿をしていた。

空海が見た沼(合成写真)

空海伝説

空海の歩いた足跡に伝説が付き纏う、此れほどまでに伝説・伝承の多い人物は稀である。

全国津々浦々に空海伝説があり、その数約300編を越えるといわれている。

伝説は史実では無く、実際に起きた出来事のように脚色されたものである。

この泊崎に伝わる伝説もおそらく民間伝承で史実と無関係だと思う。だが、空海はこの地に立ち寄って、この素晴らしい風景を見て、即身成仏の境地を切り開いたのではないかと、勝手な想像をしたくなる程、牛久沼は神秘的である。

駒の足跡
駒に乗って弘法大師がこの地を訪れ、小川に架かる石橋を渡ったときに駒のひづめの跡が石に残ったと伝えられている。

駒の足跡

木瓜(ほけ)
弘法大師がこの地を訪れたとき、通った山道の木瓜は、それ以後実をつけなくなってしまったと伝えられている。
※木瓜-バラ科の落葉低樹
逆松
弘法大師がこの地を訪れたとき、持ってきた松の枝を挿したものが根づいて地をはうように見えることから、逆松と伝えられている。

逆松

独鈷藤(とつふじ)
弘法大師堂地にあった藤の節々が独鈷に似ていることから独鈷藤と名づけられたと、伝えられている。
※独鈷-仏教語で銅、鉄製の両端のとがった短い棒
硯水
弘法大師がこの地を訪れたとき、字を書くのに湧水を使って墨をすったと伝えられ、この水を使って字を練習すると上達するといわれている。

硯水

五葉の杉
弘法大師堂地にあった杉の葉が、五枚の葉を付けていたことから、五葉の杉と名づけられたと、伝えられている。
法越(のつこし)
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた後、他の地へ移動するとき馬に乗って川を渡った場所が法越と名づけられ、法越には藻が生えなかったと伝えられている。
弁天像
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた時、炊いた護摩の灰を固めて三体の弁天像を作った。
日照が続き困った時、村の若者がこの弁天像を抱いて沼に入り雨乞いをすると雨が降った。
弘法大師の使い
沼のほとりで鎌を研いでいると小さな蛇が寄ってきた。鎌に引っ掛けて投げ捨てようとすると大蛇に変身した。この大蛇は弘法大師の使いと伝えられている。

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