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犬田 卯

もし、この人が居なかったら、住井すゑの存在も、あの大河小説「橋のない川」も生まれなかった。牛久沼の風土、文化はさぞ殺風景だっただろう。


文学者として非凡な才能を持ちながら、時代に押し潰され、病魔に阻まれて、その才能は花開くことなく終わったが、その精神はやがて、同志であり妻である住井すゑによって大きく花開く。あの「橋のない川」は、住井すゑの言葉によると、「犬田の腕となって書いた私の作品」つまり、「橋のない川」は犬田卯と住井すゑの共同作業によるものだと・・・・。

何かを憂いだそこはかとなく悲しそうな表情の犬田卯

 

明治24年稲敷郡牛久村、城中の牛久沼畔にて貧農の子として生まれる。高等学校卒業後、3年間の水戸工兵隊の任務を終えると、しばらく農業で生計をたてる。やがて、小川芋銭の引き合わせにより、俳人石倉翠葉氏のもとで俳誌の編集を手伝うようになる。それが切っ掛けとなり、博文館の編集者の職を得る。大正3年雑誌「少女世界」を通して住井すゑと知り合い交際が始まる。大正7年の米騒動を契機に生産農民の社会的経済的に抑圧されたもにを痛感し、文学による農民開放を唱える。大正8年博文館を退社。雑誌「農業世界」に書いた農地解放の評論が筆禍事件を巻き起こしたためである。孤立無援になったため、生計を住井すゑに助けてもらう。後に婚姻届を出す。そして住井と共に農民文学の道を歩み、その頃結成された農民文学研究会に参加し、「土からの文学」を主張する。大正10年、このころから喘息の発作が始まり、生涯を通じての、この病気との戦いが始まる。昭和7年、自らが主宰する「農民」が発禁処分となり、精神的ダメージを受ける。この頃から喘息の発作がひどくなる。昭和10年、家族と共に病気療養のため郷里の牛久に帰りる。その後の生活は病床に伏せた時が多かったが、ライフワークとも言える「フランス革命」の翻訳を続ける。晩年は神経も患い入退院を繰り返す。昭和32年住井すゑに看取られて66年の生涯を終える。

機関誌「農民」
農民文芸会の機関誌として、犬田卯が中心となり創刊。シャルル・ルイ・フィリップの記念講演会がをきっかけに農民文学運動が興隆した1920年代、大同団結をうたって都会的なプロレタリア文学と一線を画しての農民自身による解放・文化創造を目的としした。
主な作品
『土に生れて』(1926)、『日本農民文学史』(1958)

直筆原稿「牛久沼の四季」

 「愛と命」より

「沼はいまごろいいだろうな------」
口に出して言うと、妻も
「いいでしょうね。-----でも、まだ帰るわけにはいかないわ。」
「帰った方がいいかもしれないよ。-----すべての点で・・・・・」
今頃は、カル鴨が静かな水面にゴマでもまいたように浮かんで、嬉々として泳ぎまわっているであろう。枯れた真菰の中には、白さぎが長い足を立てて、そして、じっとあたりをうかがっているであろう。鮒をとろうとする「見捕り」の舟も、あちこちに見えることであろう。
霞ヶ浦の茫漠とした、つかみどころのない眺めにくらべて、牛久沼のそれは、一つのまとまりがある。久しぶりに沼を眺めることによって、この無味乾燥な病院生活からくる退屈さを少しはまぎらすことが出来るかもしれぬ。

病床での日記、「愛と命」より抜粋

愛犬太郎(スピッツ)と牛久沼を望む自宅庭にて

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