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犬田 卯 随筆集

犬田氏(犬田卯長女)の好意により、犬田卯秘蔵書の中より、牛久沼を題材にした随筆二題を、原文のまま紹介。

沼のまぼろし --芋錢の河童---

牛久沼の名木「河童松」が枯れそうである。いや、半ばもう枯れて來ている。樹齢六七百年(素人の推定であるから、あてにならぬか知れぬが)中は殆ど空洞で、グロテスクな大枝小枝を丘の上から沼の方へ伸びている。

昔、彦右衛門という勇士があって、夏から秋にかけ、沼で水泳する村の子供達を、河童の奴がひき込んで仕方がないので、或日、そやつを捉えて來て、この松の木へしばりつけた・・・・という傳説をもつた古松で、晩年、小川芋錢先生が新築された畫室件居間からは、すぐ眼の前にこの松が見えていた。

芋錢先生がよく河童の繪を描かれたことは、「カッパの芋錢か、芋錢のカッパか!」などゝ言われるほど有名な話である。この河童松も無論、先生の筆に上つている。
  さて、昔はこの沼に河童が居たかどうか、今からそんなことを眞面目にせんさくしても仕方がないが、それに第一、カッパなるものが恐らく誰一人、その姿を見たこともなく、考古學者にせよ、動物學者にせよ、その存在を證する者は無い。

然るに芋錢先生がえがくところの河童は、立派な形状をもち、闇夜やなぎの木の下にちよこんと頬かむりして突立つていたり、水かきを持つた、ぬらぬらした手や足を巧みにうごかして自由自在に水の中を泳いでいたり、「因指見月」などゝ、沼岸に座つて一本指を立てゝお月さまを眺めたりしている。

では、先生は河童の存在を獨斷されたのであろうかというに、いな、「河童に宿」と題する小品に曰く、「或世紀までは存在していたという。居た、居ないは、別として、幼少の頃から河童が好きで畫いた。然し葉公の龍ではないが、私は畫いたり想像したりしている河童が好きで、假りに、本物の河童が出て來て、私が本とうの河童だよ、と顔を突き出された時、葉公先生のように眼は廻さないまでも、歓迎することは聊か躊躇せざるを得ない。けれど私の愛する河童は繪の河童で、實物ではないのです」

従つて変通自在、ときと所にしたがつて様々なカッパが出て來る。

「カボチャ畑をふらふらと、酒か団子か、よい機嫌」(「民話カッパ」贊)

「芦の若葉がくれた、川獺娘を垣間見て、袖にはあらぬ屁ツポをチヨイと引いたら喰ひつかれ、田長の鳥のなくなくに、カッパ膏薬二タ貝はつた。(「河童と獺娘」の贊)

「我も輪廻の戀の闇、花さき草のまぼろしに、こがるゝ思いやるせなや、風に流るゝ小狸藻の、行衛もしらぬ迷ひかな」

「迷う心の細流れ、ちよろちよろ水の一筋に、うらめしいのは白鷺の、水になれたる足よりも、ぬれて雫ときゆるもの」(以上二編「鷺娘と河童」贊)

「はなせ、とめた、とめてよいのは朝の雪、ゆきにはあらぬ雨夜のカッパ、皿にためたる皿力、朝比奈ならぬ怪力に、エイ~引くや霞の富士お山、千萬年も變らぬ姿、めでたけれ」(「河童の草摺引」贊)

「北冥に河童あり、化して鳥となる。其名を鵬といふ、鵬の背幾千里といふ事を知らず、其翼乗天の雲の如し、扶揺に搏つて上がるもの九萬里、九萬里は風の厚さなり、厚からざれば大翼を乗する所なし、河童は其体屁と興に輕し、鵬となれば其重きこと幾何ぞ物化すれば大小輕重もとより變ず。、其變化の妙機、宇宙の測るべからざるが如し」(「鵬」贊)

「カッパ曰く、何をか天と謂ひ、何をか人と謂う、海坊主曰く、牛馬四足、是を天と云ふ、馬首を落し、牛鼻を穿つ、其を人と云う、故に白く、人を以て天を滅ぼすこと無かれ、故を以て命を滅ぼすこと勿れ、徳を以て名に殉ふこと無かれ」(「海坊主と河童の問答」)

「河童は江湖の哲学者気取り、鳩が浮巣の浮気を笑へど己が暮しのカッパの屁の如きをしらず」(「河童圖」贊)


「今昔物語」や「筑紫民譚集」などには、いろいろの河童の話しが出てくる。然し何れもそれらは、われわれ人間生活にとつてあまり好ましくない存在である。たとえば、夜中に便所に入つた嫁女のお尻を撫でたとか、牛久沼の河童と同じように子供らを「引ツ込む」とか。稀には子供達と相撲をとるとか、骨折の薬を傳授するとか云う多少愛嬌もあるのだが、とにかく俗物的存在であつて、芋錢先生の河童の如く、禪味あり、哲学味のあるものではなかつた。

私の村(牛久村城中)では、毎年舊十二月一日に「カピタリ餅」というものを搗いて、それを各家々で四つ五つ、沼や附近の溝へ投げこむ習慣がある。何も意味するのか分からずに、私なども投げこんだものだつたが、あとで芋錢先生に聞くと、これはカッパ供養---即ちカッパの災厄を除ける行事である、という風に解され、「カピタリ」というのは「川浸り」のナマリであろうと言われた。

「利根川圖誌」にも一つ河童の話が出ている。

「望海毎談に、刀彌川にネ、コといへる河伯あり、年年にその居る所變る。所の者共、その變りて居る所を知るその居る所にては人々も禍ありといへり。げにカッパの害ある談多し」云々。利根の沿岸地方には「カピタリ餅」の行事があるかないか聞いたこともないが、とにかくカッパというもの、まことに困却した存在であるには變りはなく、また「蜀山人全集」の中に出てくる水戸浦の「屁コキ河童」というのを芋錢先生は畫にされているが、それは、

「享和辛酉六月朔日、水戸浦より上り候河童身長三尺五寸餘、重さ十二貫目有之候殊の外形より重く候海中にて赤子の鳴く聲夥敷いたし候間、猟師ども船にて乗りまわり候へば、いろいろの聲仕候。夫れよりさしあみを引まわし候へば、鰯網の内へ十四五疋入り候が、をどり出で逃げ申候が船頭ども棒櫂等にて打ち候へばねばり付き一向に櫂等きき不申候。その内一疋船の中へ飛び込み候故、とま杯押かけ其上よりたたき打殺し申候。

其節またもや赤子の鳴聲いたし申候。河童の鳴聲は。赤子の鳴聲同様に御座候。打殺し候節、屁をこき申候が、誠に堪へがたきにほひにて、船頭杯、後に煩ひ申候、打ち候棒かひなど、青臭き匂ひいまだ去不申候、尻の穴三つ有之候。總体骨なき様に相見え申候屁の音はいたさず、すつすつと許り申候」云々というのであつてこれまた、あまり好ましい存在ではない。


然し芋錢先生は、最初の頃、これらのカッパを、俚俗そのままに描かれ、あえて、粉飾を加えられなかつた。民謡カッパや。都々逸河童を描かれたのは、やや、晩年のことであり、更に禪的、哲学的河童は。これは全く、晩年の所産である。

これらの瓢逸味を帯び禪味を帯びた河童と平行して、先生にはもう一つ「山魅水妖」という畫材があつた。「芋錢子開七畫冊」の自序中に曰く、
國中往々怪を描くものあり、其予が癖にして實に東洋民族の癖なり、縁由する處は老樹○○(解読不能)爪水中狐獺の類、則自然物体中より、其妖気魅形を補足し來る。惟うに宇宙間虚霊遊動して予が方寸を誘くものか。彼の古の蝶化幻化は遠く神仙の域に属す。予は只予が畫中の人となり能く病弱を忘れて、茲に生涯に遊戯せんのみ」

河童も即ち、かの「桃源境」や「木精」など同じく、ひとつの理想境、「極所」の表現に他ならなかつた。老莊や禪の味讀によつて達せられるような三昧の境地------そこに悠々自適しようとされたのであつた。

このことは、先生自身「河童百圖」の序の中で言われている。

「カッパといふもの、古動物として存在したりや、又怪異として存在したりやといふに、動物としては、享和辛酉六月朔、常陸國水戸浦の漁夫が捕へたる屁こま河童の記録により、其存在を確めたり。怪異としては、九州其他の傳説に不思議を残したり、さもあればあれ、予は唯想像の翼に任せて、筆端カッパを捉へ、カッパを放ち、遊戯自在に振舞ひて、終に三昧に入れるを以て楽しみとなす。即、芋錢のカッパか、カッパの芋錢か、の禰ある所にか」


畢竟、沼のまぼろし----狐火とか鬼火とか言われるようなものと同じく、沼というものの持つ何とない神秘感、茫洋とした、捉えどこのないような、有るような、一種の夢幻的なものが、遂にかくの如きものとなつて藝術的表現を持つたのであろう。

芋錢先生の落款に「無描所」というのがある。推寫を絶したところ----即ち「無」の境地にこそ、本當の藝術境、畫境は存在するという意味である。そしてまた、そこにこそ、人生の妙所も、宇宙の妙機も存在するという意味である。

音をもつて表現する音楽に於ても、「無音」ということが言われる。即ち、音のないところにこそ、却つても音の表現する極致が在る。繪畫においても、それと同じく、「無描所」にこそ極致がある。

そしてこの極所にこそ謂ゆる「三昧境」はあるのであろう。

(おはり)

河童の碑と犬田卯


夏日抄  ---牛久沼スケッチより-----

雲らしい雲―――雲それ自身として獨立して面白いのは、夏曇、それも平野に見える眞夏の雲であらう。それは漠然とした地平の混沌から、次第に形を成しつゝ、徐々に、動くともなしに動きつゝ、中空に昇つて来る。そして、或は團々をなし、或は片々に白くちぎれ、絶えずその形を變化させながら、果てしもない虚空にひろがり浮かぶのである。

秋の雲は地平線から出て地平へと遽しく旅するものゝやうに移動するが、眞夏の雲は、そのまゝちりぢりと沖天で消失するか、または他の雲とひとつに融け合つて屑をなしたまゝ停滞してゐるか、何れにしても颱風の気味ででもない限りは、あてどもなく虚空を遊泳してゐるものとしか思はれない。行衛も決まらぬまゝに地平から沖天へとさまよつて來たものゝやうにしか思はれない。

然し時にかうしてあてどもなく浮かんでゐる雲は集團をなし、雷雲を形成することがある。そして非常にそれが高く、雷鳴の気配のみ見せて、ぢつとして去らずゐる時などの壮観はまことに眞夏の一つの魅惑といつてよからう。灰色の、黄粉色の、或は橙色の、さまざまの雲の峯が、お互ひに先を競つてむくむくと膨れ上がり、伸び縮み、巻きかへりしながら、何ものをも恐れず、押し退けるやうに、それは擴がつて行く。まるで紫陽花が、ぱつといくつも虚空高くつぎつぎと咲き出すやうである。

然もこの雷雲は地上と関係を結ばない限り、いくら先へ先へと競つて打ち擴がつて行つても、どこまでも團雲という形を出です、いつか根の方は墨灰色に動かなくなつて、一色に流れ固まつてしまつてゐる。然し、一度びこの團雲が低く垂れて擴大するや、それは風を伴つて急速に乱れかかり、瞬く間に耕地や村々の上にのしかゝつて、そして物凄い驟雨を打ちそゝぐのだ。

雲には四季を通じて、朝畫夕、それぞれ特異の姿態なり色彩なり動きなりがあつて、盡きない美しい興趣があり、時に哀愁や、暗さや、また異状の華やかさを伴ふものであるが、眞夏の雲には、實にその哀愁や暗さが尠い。どこまでも勇壮であり、そしてその哀愁や暗さの反對のものを感じさせられる

一般に雲の千變萬化は人生千變萬化に比せられ、またその不安定性――――どこからともなく生じ、どこへともなく消えてゆくところの(無論それは理由あつてのことではあらうが)その虚空から無限の虚空へと生滅するありさまも、我々をして人生そのものゝ姿を想見せしめるに足りる。が、この眞夏の雲そのものには、寧ろさうした不安定性とか移動性とか、虚無感とかを撥無してしまつた、或いはそれらを超克したところの、まつしぐらな、幅のひろい積極性――――何ものかに向かつてひたすらに突進して行くやうな激しいものが感じられる。単にそれは雷雲におけるのみでなく、無心に悠々として浮動してゐる時にあつても、烈日のかゞやきの中にあつても、さうなのである。

夕月

炎熱にやかれた大空が、夕暮時の追つてゐるにも拘らず何時までも明るく、なかなか夜にもならず、涼しくもならずといつたやうな時刻である。ひよつと東の方を見ると、何時出たともなく、それこそ「音もなく語もなく」大きな月が橙色にくすんで、こんもりした樹上などに、のつそりと出てゐることがある。

暮れなづむ空に比例して、この月もなかなか明るさを増さない。ぼんやりと黙つて、灰をかぶつたやうに、木立や屋根の上にかかつたまゝ、徒らに大きさばかりが大きいのである。

だが、月は決してじつとしてゐるわけではなかつたのだ。のそりのそりと唖のやうに昇つて、やがて光りも増し、大きさもそれほどではなくなるのである。といつても、それまでには小一時間もかゝつてゐるのではあるが。

夕べの風にぱらりと開いた月見草の黄色い花辧が、さうして明るくなつた月の光を思ふ存分吸つて、ますます誇らかに艶を出す。殊に河原や野ツ原に自然に咲いてゐるところへ、徐々に、しつかりとした月が、次第に光りを増して行くのは趣がふかい。

夏の夕日は、また、思ひきつて長く物の影を地に曳かせるのが面白い。ふと、月光の中を歩いてゐる自分の黒い影を見つけて、これが果して自分のであるか、何ものかゞ自分のうしろに立つて接ぎたしをしてゐるのではないかとさへ思はれる程、それは長いのである。然もそれが冬や秋のやうにはつきりしたものでなく、薄くぼかしを被つたものであるだけに、よけい長く大きく思はれるのである。

月の光はたしかに物のかたちを美しく見せる。晝間、日光の下に見るとき、それがどんなに醜いものであつても、度び月光の中にあつては、すつかり變わつてしまつて、そこ一に幽玄さ、非現實さが着色されて來る。私はしばしば我が村の下に展開する牛久沼の対岸を、この月の光の中に見て幼稚であるが、夢の様な…などゝいふ形容をしたものだが、全くそれは生々しい現實から遠く去つて、夢幻界に沈んだものゝやうにしか見えない。言ふまでもなく、そこには村あり、町あり、丘あり、耕地あり―――人生がそのさまざまな悲曲を奏でゝゐるのであるが、さうした個々の現象は何ひとつ姿をあらはさず、たゞ永遠なるもの、無限ななるものへと融け入つてしまひ、目で見えるのは、一條の灰かな虹のやうな弧線のみである。

夜が更けるにつれて、その弧線はますます寂しさを増してゆく。だが、それを夕月に見る時分には、まだまだ一種の賑やかさにみたされてゐる。それは恐らくこの沼をめぐる農家が夕食最中であるとか、或いは麥小麥の始末に忙殺されてゐるとか、遠くへ行つた人が急ぎ足に家路を辿つてゐるとか言つたやうな環境からのみ來たものではあるまいと思はれる。夕べの月光そのものゝ中に、何かしらさうした穏かなもの、親しみある要素のやうなものが交つてゐるのだらう。

蝉は夏から秋にかけての自然の推移をそのまゝ伴奏する。種々な蝉のうち私の地方(関東北部)では蜩が先ず「夏來る」を告げるのである。はん夏前後の夕方、全く忘れらてゐるやうな時、ふと遠くの木立から「カナ~カナ~」といふ哀調を帯びた啼き聲が傳つてくるのは、なんともいへない情趣のあるものである。蜩のことを、私の地方では「はんげ虫」といふのは、彼等がきまつて梅雨あけの頃、それも大概はんげの夕方に、待つてましたとばかりに、ひよこり啼き出すからであらう。

蜩は早朝く、東が白みかゝつた時分、そちらの方で一群が啼いたと思ふと、それにつれて、こちらの木立からも啼き出すといふやうな啼き方をする。単独で、時をかまはずに啼くやうなことは殆どないといつていゝ。彼等は日中はあまり啼かない。時雨模様にでもなつて、急に空がかき曇つて來たときとか、雨が上らうとして、暫しの間の、まだ陽の照らないやうな時とかを除いては。

彼らのよく啼くのは夕方である。あたりが暗くなつて、相手がどこにとまつてゐるのか我々の眼には分らないやうになつても、まだ飽きずに友を呼びつゞけるのである。さういふ時の彼等の啼き聲には、何となくやるせない、騒々しさへ感じられるほどである。

騒々しいといへば、全く文字どほり騒々しいのは油蝉である。これこそ眞夏の、かんかんと陽のてりつける時の蝉であらう。私の地方には梅雨に入る前、松蝉とよぶ小さい虻のような奴が、よく松林のなかなどでぢい~と煎りつけるやうな啼き聲を立てゝゐるが、その松蝉などの比較でないほど油蝉は騒々しく、そして聲も低いやうでゐて、實はかん高い。が、如何に騒々しい奴にせよ、この蝉が出ないと、まだまだ本格的の夏はやつて來てゐないのだといふ気がするから可笑しい。

油蝉の出る前、蜩につゞいて、ちツち蝉といふ小形の蝉が、私の地方では、その何かゞ降りるやうな、しい~といふ啼聲で炎天を煎りつける。この蝉の啼き方は、どこか女性的であつて、内に深くこもり、油蝉の野放圖さは欠けてゐる。

みんみん蝉は、それらの蝉に比較するとずつと知的であり、また悠長で、これは何となくもう秋の聲だ。土俗、この蝉の啼き聲によつて玉蜀黍が實るといふ。土用の聲と.共に大方は啼く蝉であるが、その聲をきくと、夏も頂上を過ぎたのだとつくづく感じさせられるから不思議である。

次ぎに「つくつくぼうし」は柿の熟するのを告げるものとされてゐる。みんみん蝉に比べてこの蝉は實に忙しい啼き方をする。まるで來るべき秋の歩みを警告するもののやうである。しかもこの小さい透きとほるやうな蝉は、朝早くから晩方まで、時をきらはずに啼きつゞける。あの小つぽけな身體のどこにあんなにも聲量があるのかと思はれるほど、この蝉はいたいたしい。彼等は羽をふるはし尻を振り立てゝ、まるで生命がけで啼く。そこには躊躇もなければ 逡巡もない。それはたゞひたむきな衝動的な暫しの生の爆發に任せたものの行為である。

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