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鬼平犯科帳、雲竜剣

同心片山慶次郎が殺された。次の日は金子清五郎が。
二夜続けて腕利きの同心が殺られた。これは火盗改め方への挑戦状か
謎が謎を呼び、その謎はやがて牛久沼に吸い込まれてゆく。
鬼の平蔵にとって最大の危機が迫ってくる。

物語の概略

「鬼平犯科帳、雲竜剣」 池波正太郎 作

長谷川平蔵は、帰宅途中大鴉のような男に襲われた。相手の剣気のすさまじさ、は平蔵の経験したことのないものであった。それ以後大鴉の夢をたびたび見るようになった。そんな時、同心片山慶次郎と金子清五郎が続けて何者かに殺害された。殺害された二人の傷口から察すると、そのくせ者は自分を襲った大鴉ではなかろうかと、平蔵は直感する。そして平蔵は亡き恩師の高杉銀平の言葉を思い浮かべるうちに、大鴉の男と、堀本伯道が結びついてくる。高杉銀平によると、20数年前に、高杉と堀本伯道は牛久.沼のほとりで真剣勝負をしたという。伯道は雲竜剣という剣の使い手で、その時は勝負こそ付かなかったが、忘れられぬ剣客であったと。平蔵は自分を襲った大鴉と堀本伯道が同一人物とは思えないとしながらも、堀本伯道のことを調べるため配下(岸井左馬之助ら)を牛久探索へと向かわせた。そこで分かったことは、堀本伯道は30年前、藤代宿の吉田玄竹のもとで2年間ほど医者をやっていたこと、そして近江の八日市出身であることである。一方、火盗改め方では時を同じくして、近江出身で盗賊の一味、鍛冶屋(鍵師)の助治郎が牛久にほど近い藤代宿に向かったという情報を得た。誰もが謎を解く鍵が牛久沼周辺に隠されていると思ったが、以後こちらでの探索は空転するばかりであった。


鍛冶屋の助治郎は藤代宿から急遽江戸に引き返し、数日後東海道を上った。その間、江戸市中では平蔵が3人の刺客に襲われたり、火盗改め方役宅の門番磯五郎が何者かによって殺害されたり、あきらかに火盗改め方への挑戦とも思える不穏な動きが頻発する。そして平蔵たちの探索は江戸市中を中心に平塚、小田原、丸子宿(現川崎市)へと進展し、意外な結末を向かえる。


実は雲竜剣の使い手で、医者でもある堀本伯道の裏家業は盗賊の親分であった。今度の押し込み強盗のため、助治郎に合鍵作りを命じていた。これまで伯道は盗んだお金で、報酬宿を作ったり、死に瀕する者にお金を与え多くの人間を救ってきた。また押し込み先では一人として人を殺した事がなかった。そして今回の仕事を最後に盗賊から身を引くつもりであった。その伯道の息子、虎太郎はやはり盗賊で、雲竜剣こそ父親ゆずりであったが、親の心子知らずというか、盗賊のやり方は父親とはまるで正反対であった。押し込み先ではおんな子供まで皆殺しにした。そして盗んだお金で妾を囲んで贅沢三昧の生活をしていた。その虎太郎は仕事をやりやすくするために、火盗改め方同心を殺害し、平蔵たちを攪乱させていたのである。

そのことを知った伯道は息子を許すことが出来ず、虎太郎の別宅根岸を訪れる。そして、その情報を得た平蔵が根岸の虎太郎別宅の問をくぐった時、目の前で堀本親子の死闘が始まっていた。平蔵は虎太郎を見てやっと総ての真相が分かった。自分を襲った大鴉のような男、片山や金子同心を殺害したのはまさに目の前にいる伯道の息子虎太郎だったのである。平蔵が待った!と勇み出たときは伯道は虎太郎に殺られ、すでに息絶えていた。その虎太郎は平蔵との凄まじい勝負に敗れ絶命する。そして、虎太郎の一味は根こそぎ捕らえられた。また、堀本伯道の一味も捕らえられ牢送りとなるが、その中で、鍛冶屋の助治郎を密偵として使う腹づもりの平蔵であった。

この物語と牛久沼の関わり

文中の青色は原文をそのまま引用

平蔵は大鴉のような男に襲われて以来、たびたび大鴉の夢をみるようになった。その夜寝床で、高杉銀平の言葉を思い出した。ほとんど自分の過去を語らない高杉であったが、忘れられぬ剣客があったと。「その剣客と、わしは、常陸の牛久沼のほとりで、真剣勝負をしたのじゃ」と言って、その時斬られた傷口を見せた。その勝負は引き分けの終わったのである。そして恐るべき人物の名を明してくれた。「医者のような名前でな、堀本伯道と名乗った。・・・・・あの不思議な刀法については、やや誇らしげに、自分が草案になるところの、雲竜剣じゃと申してな」と、高杉銀平が語っていたことを思い出した。平蔵は高杉銀平の言葉を思い出すうちに、堀本伯道と大鴉の男のイメージが重なってくる。といっても自分をを襲った人物と堀本伯道が同一人物とは思えない。そこで平蔵は剣友の岸井左馬之助を呼んで、総てをうち明けた上で、牛久沼へと旅発たせた。

この物語の序盤にて、牛久沼が大きくクローズアプされる。事件の真相が不透明ながら、牛久沼には何か謎があると・・・・・。

牛久宿

その日の午後に、常陸の国(茨城県)牛久の宿場へ入った岸井左馬之助は、上町の本陣の近くにある旅籠[柏屋三.右衛門]方へ旅装を解いた。

牛久は、江戸から水戸街道を十六里余。山口広致・一万十七石の領地であるが、殿さまは江戸の屋敷に常駐しており、牛久には陣屋を置き、家臣が政務をとっている。山口広致は小さな大名で城郭も構えていないのだから、城下町ということにはならぬ。参勤のつとめもなく、むしろ、このような小さな大名の方が「当節は入費もかからず、気楽なのだ」

この書き出しにより、牛久藩及び牛久宿の一端が窺える。少し捕捉すると、山口広致は山口重政から数えて八代目で、天明から文政年間にかけて藩主を勤めている。当然の事ながら実在の長谷川平蔵と同じ時代の人である。

しかし、山口広致が気楽な殿様だったかどうかは分からない。おそらく、他藩と同じく、2年おきの参勤交代は必定であったと考えるのであるが。

さて、 左馬之助が案内された部屋は二階奥の間で、窓の向こうは一面竹藪であった。閑静な牛久宿の様子が窺える。柏屋は郷土史の記録に残っていないことから、おそらく架空の旅籠でろう。あとの本文と照らし合わせて見ると、その場所は、現在の農協(本陣跡)より、少しだけJR牛久駅寄りの場所と考えられる。

左馬之助は「牛久沼の景色も見学したいものだな」と番頭に言う。決して観光気分ではない、高杉銀平と堀本伯道の真剣勝負がどんなところで行なわれたか知っておく必要があったからだ。ところが、この物語の中では、牛久沼のシーンは一度も出てこない。牛久宿から牛久沼までは2kmほど離れている。そして、江戸からの道中でも牛久沼を眺める事は出来ない。なぜなら当時の水戸街道は牛久沼辺を通らないで若柴宿を迂回していたからである。

正源寺は、本陣の手前の火ノ見櫓の傍へ切り込んだところに在った。背後は、鬱蒼たる木立で、山門を入ると石畳の道が傾斜して茅葺屋根の本堂へ通じている。

左馬之助は堀本伯道のことを調べるために、宿の主人の案内で正源寺の和尚を訪ねる。


正源寺は現存するお寺で、実名で書かれている。原文に記載されている通り、山門を入ると石畳の道が本堂へと下っている。現在は茅葺屋根ではないが立派な本堂を持つ曹洞宗の古刹である。

左馬之助が正源寺を訪ねたことによって、堀本伯道が牛久からほど近い藤代宿にいたことが分かった。藤代宿は、牛久宿から江戸に向かって二里の近間である。

曹洞宗正源寺

藤代宿

常陸の藤代は、江戸から街道を約十三里。さらに約二里をすすむと牛久の宿駅となる。
藤代の宿駅は、牛久沼や小貝川・利根川沿岸の台地に囲まれた低平坦地だ。そして、これらの河川の氾濫のたびに水害が起こっている。幕府は、遠く寛永のころから、関東郡代に命じて、小貝・鬼怒・利根の三川の治水に取くみ、二千間におよぶ大堤防を築き、このあたりを穀倉地帯にすることを得た。

この記載事項で、池波正太郎は大きな間違いをしている。藤代は下総国である。池波正太郎は茨城県がそのまま常陸国だと思ったのだろうか。実際は茨城県の西部、利根川寄りの多くは常陸ではなく下総である。明治以降のこの辺の県の変遷は幾度となく複雑に行なわれているから、勘違いする人も多いだろう。また、細かい部分で資料の収集不足を感じる。たとえば、「さらに約二里をすすむと牛久の宿となる。」この部分の文章によると、途中の若柴宿のことが欠落している。物語の歴史的、地誌的な背景を説明する以上、当然若柴宿の記載が必要なのである。更に、藤代宿の特徴とも言える、合宿の形態。つまり二宿で一宿を成していたことの説明が欠如している。つまり、藤代宿は、宮和田宿と藤代宿の二宿を併せて藤代宿と呼んでいたのある。

池波正太郎は、超売れっ子の時代劇作家だった。どうしても机上での仕事が中心となり、現地調査や資料収集は他人任せになるのが普通で、まして、片田舎の牛久や藤代の調査が疎かになっになったのも無理からぬことである。しかし、現地の読者のことを思うと、たとえフィクションであっても、こういう地誌歴史の説明部分は、きっちり調査をしてから作品にして欲しかった。不幸にも「常陸の藤代宿」という記載が重ね重ね目についてしまった。

小貝川(宮和田の渡し場)

左馬之助は、間もなく、小貝川の渡し場へ出ていた。
西の空の灰色の雲間から残照の色がわずかにのぞまれた。
川岸を吹きぬける風の冷たさに、左馬之助は身ぶるいをした。
渡し舟は、まだ対岸にいたが、すぐに数人の客を乗せ、こちらへ川をわたって来た。
こちらの岸辺には、子供を背負った農婦らしい女と、旅姿の町人と、これも、笠をかぶった旅の侍がひとり。
左馬之助を含めて五人が舟を待っている。
子供と農婦は別にして、旅姿の町人と侍は、たがいにはなれて立っている。
舟が着いた。
葦の群れが風に鳴っている。

左馬之助が藤代宿から牛久へ戻る時のシーンである。小貝川の渡し場、つまり宮和田の渡し場の情景が描かれている。江戸時代においては、政治的な理由からであろう、大きな川には橋が架かっていないのが普通であった。旅人は難儀をしたであろう。川を渡るには、舟に乗るか泳ぐしかなかった。

ここでは宮和田の渡し場で舟に乗り、対岸の小通幸谷村で降り、常陸国の第一歩を踏むことになる。つまり、この川が下総と常陸の国境なのである。現在の千葉県と茨城県の県境とは大幅に相違している。原文には記載されていないが、晴天なら、この渡し場からあるいは舟上から左前方に雄大な筑波山が望める。

旧宮和田の渡し

藤代より龍ヶ崎を望む

牛久沼に沿った道へ左馬之助が出たとき、夕闇はかなり濃くなってきていた。
農夫も旅の侍も、もう一人の客も、散り散りに、どこかへ行ってしまい、左馬之助の前を旅の老爺がひとり、すいすいと歩いている。
牛久沼に沿った道が、ゆるやかに右に逸れると、左側に、木立に包まれた小高い丘が見える。むかし、あのあたりに牛久の城が築かれていたのだという。

常陸国の第一歩を踏んだ旅人は、まず最初に小通幸谷村の観音さまが目に止まる。正確には『清水山慈眼院十一面観世音』といって、眼病に霊験があると信じられ当時は参拝者が多かった。それはさておき、水戸街道を牛久方面に向かうには、牛久沼に沿った道へ出ないで、ゆるやかに右に逸れる。すると左側前方に小高い丘が見え、まもなく若柴宿に入る。残念ながら原文では若柴宿に関する記載はいっさい無い。この後.、左馬之助はくせ者に狙われるのであるが、ちょうど若柴宿を過ぎたあたりと思えばいいだろう。左側の木陰から街道筋へ躍り出た人影が、突然左馬之助へ斬りかかるのである。

まとめ

左馬之助がくせ者に狙われる直前に、実は鍛冶屋の助治郎から声を掛けられる。ここで左馬之助が動揺したため、物語の展開が変わってしまった。水戸街道を北上し、水戸の城下で合鍵を作る予定だった助次治郎は、危険を察し、江戸へ引き帰してしまった。結局予定を変更して、その後東海道を上り、小田原城下にて合鍵を作るのである。つまり、このことによって、物語の中心が牛久沼から、江戸市中、東海道へと移ってしまった。その後も左馬之助は牛久沼周辺を探索するのであるが、その詳細は伝わってこない。


最後に長谷川平蔵はこう纏めている。「今度の仕事は、おぬしと出会った鍵師の老爺が、あわてて江戸へ舞いもどったことから、足がつきはじめた。ありがとうよ、左馬。もつべきものは友だちだのう」と左馬之助に皮肉をこめて。

最後に

この物語は「鬼平犯科帳」初の長編であり、文春文庫第15巻目にあたる。全部合わせてもこのシリーズの中で長編は4編しかない。それだけに「鬼平犯科帳」の中でも「雲竜剣」は貴重な存在と言えるだろう。

しかし、やはりというか、このシリーズは短編の方が話の展開が小刻みで冴えている。確立された短編シリーズの中において「雲竜剣」は数少ない長編で、これまでの展開とは違って話を引き延ばすために、あれやこれやと無駄な挿入部分が多くなっている。そう思うと、この長編「雲竜剣」における牛久宿及び藤代宿の存在は、単に物語を引き延ばすために挿入されたと部分と思えてしまう。ただ推理時代劇と考えるなら読者を翻弄させるために「牛久沼」の存在感は充分あったのだが。

私は「鬼平犯科帳」をこよなく愛しているだけに、少々残念であった。

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