歴史で観る牛久沼/中世編

牛久沼周辺における武士の台頭

平将門の乱の平定に功のあった平貞盛や藤原秀郷の一族が武士団として常陸国や下総国に勢力を伸ばした。彼らは開墾を進めながら、一方では力で公地を己が領地として荘園を広げた。

 平貞盛の一族は大掾家として繁栄し、子孫は常陸権介に任じ、筑波から鹿島に至る六群の領主となった。鎌倉幕府成立後も常陸平氏、下総平氏を名乗り、この地方に多くの知行地を保持していた。下総平氏の一族が鎌倉時代の末期に岡見郷(現牛久市)に館を構え岡見(尾上)を名乗り、岡見氏の祖となる。後に岡見氏は小田氏より婿を迎え、その一族となった。

   

藤原秀郷の子孫は、下河辺氏を名乗り、下総古河付近を開墾し領地を広げていった。下河辺政義は保元の乱の功により、常陸国の石岡以南の地頭職となり、代官を派遣しこの地を支配した。その後、鎌倉政権が安定すると、下河辺氏は義経に与していたという理由で所領の総てを失う。しかし、下河辺氏の子孫の一部はそのまま常陸国南辺に土着してこの地の開墾を進め、やがて竜ヶ崎氏を名乗るようなった。

 

後三年の役(1083~87)にて奥州の阿部氏、清原氏を平定した源頼信の弟義光はその功により常陸介に任じられた。義光の孫の昌義の代には佐竹氏を称して常陸国北部に君臨するようになった。

 

鎌倉期には、鎌倉の有力ご家人宇都宮氏の一族八田知家は鎌倉政権設立の功で常陸国の守護職に任じられ小田(現つくば市)に小田城を構え本拠とした。その後八田氏は小田姓を名のる。小田城は南北朝時代は南朝方の関東における拠点となる。南朝滅亡後、小田氏は足利幕府のご家人となるが、多くの所領を失う。

 

関東管領として鎌倉府における絶大な権力を持っていた山内上杉氏は、小田氏から没収した所領、河内庄の一部を家臣の長尾憲景に分け与えた。しかし長尾氏には跡継ぎがなかったため、身内の臼田氏(霞ヶ浦東岸を支配)にその所領を譲る。また、山内上杉氏は家臣の土岐原秀成を信太荘に入部させ勢力を広げた。つまりこれが江戸崎土岐氏の初代である。

 

南北朝になると、下総の結城氏が武蔵国足立郡及び埼玉郡に所領を与えられると、多賀谷氏は結城氏の家臣として頭角を現す。享徳の大乱(1454)では、古河公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を討ち、その報酬として、下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら独立性を強めてゆく。

牛久沼周辺の戦国期

 

京都に幕府を置いた足利尊氏は、関東経営の拠点として鎌倉府を創立した。鎌倉府の長官は尊氏の子基氏が任に当たり、その後も基氏の子孫が世襲し、鎌倉公方様と代々呼ばれた。一方上杉氏は基氏より執事を命じられその任にあたった。これが関東管領職であり、上杉氏の世襲となる。

しかし、足利幕府にとって、関東の根拠地としてその存在価値があったのは最初だけで、義満の時代南北朝の統一が実現すると、幕府の基盤が安定し、その存在意義がなくなった。その間、鎌倉府は隆盛を極め、半ば幕府から独立したかたちをとり、幕府と鎌倉府の反目が相次ぐようになった。

そのような状況の中で、争乱に巻き込まれた鎌倉公方足利成氏は古河に走って古河公方と称するようになる。これにより古河と管領職上杉氏の対立が深まり、やがて関東を二分する争いに発展するのである。茨城県下の常総の地においては、結城氏は古河に通じ、佐竹氏は上杉氏に通じ、その与党を巻き込んでの争乱となった。また京都で始まった応仁の乱に呼応するかのごとく、戦乱は激しさを増し戦国時代へと突入するのである。

 

戦国時代の常総地方においては、江戸崎の土岐氏の勢力が台頭し、その勢力は現龍ヶ崎市の貝原塚、竜ヶ崎、馴馬に及んだ。これに対して、岡見氏は牛久(牛久市)、若柴(龍ヶ崎市)足高(伊奈町)谷田部(つくば市)を支配下に置いた。小田氏は小田城(つくば市)を拠点とし、土浦から小貝川付近まで勢力を伸ばした。

 

そのような状況の中で、下総の結城氏、常陸の佐竹氏、小田原北条氏は、これらの勢力を傘下に加えようと虎視眈々と狙っていた。そこで、土岐、岡見、小田の三氏はこれらの強力な勢力に対抗するため、共同戦線をひいた。

しかし、小田氏が脱落すると、岡見氏も土岐氏も持ちこたえられず、北条氏の傘下となった。  一方、下妻の多賀谷氏は佐竹氏と婚姻関係を通じ勢力を伸ばすにいたって、北条傘下の岡見氏・土岐氏連合対佐竹傘下の多賀谷氏の常総の地を二分した代理戦争の様相になった。

まず最初に、小田氏は佐竹氏に攻められ滅亡する。そして岡見氏は多賀谷氏に攻められ、土岐氏の援軍虚しく滅亡する。その多賀谷氏も関ヶ原で石田三成に与して改易となる。最後まで残った土岐氏も豊臣軍に攻められ北条氏と運命を共にした。

岡見氏滅亡後、牛久にやって来たのは、上野金山城主由良国繁であった。その由良氏も国繁の死後は改易となりその後の牛久は山口氏の領土となった。一方土岐氏滅亡後の龍ヶ崎は佐竹氏の領土となるが、佐竹氏は秋田に転封となり、一旦は幕府直轄領となるがその後伊達政宗・仙台藩の飛地となった。

馴馬城址

概要

南北朝時代の古城で、龍ヶ崎歴史民俗資料館の裏側の丘に立地する。県指定文化財(史跡)となっているが、ここが城址であったことを思わせるものはほとんど見当たらない。資料館の駐車場からこの城址に入ることが出来るが、ちょっと見ただけでは単なる雑木林にしか見えないが、近年建設された案内板によってその概要を知ることが出来る。

   

さて、馴柴城の歴史についての詳細は不明であるが、だいたい次の通である。

 

竜ヶ崎地域において南北朝動乱期の早い時期に、北朝方に屋代城、南朝方に馴馬城があり、小天地を二分して相争っていた。城主が誰だったか不明であるが南朝方の拠点として存在していたことは確かだ。足利方の総大将高師冬(こうのもろふゆ)が大攻勢が始まると南朝方は各地で敗北を重ね、馴馬城も窮地に陥る。大宝城の下妻氏は春日顕国を迎え入れ必死に抵抗を続けていたが、落城とともに顕国は竜ヶ崎に落ち延び馴馬城に籠城する。ところが康永3=興国5(1344)年、宍戸荘(友部付近)の軍勢に攻められ、馴馬城は落城し春日顕国は再び大宝城に舞い戻ったという。この攻防を最後に竜ヶ崎地域における南北朝の動乱は終結した。

 

城のかたちは、 稲敷台地の南端に伸びる3kmの台地上にあり、舌状台地の先端を堀切で区切るという類型的な構造をしている。ただ城域の東側と南西部がかなり削られていて、城跡であることを明瞭に示す遺構は少ない。全体としてめりはりのない城であったと考えられが、そのこと自体が南北朝時代の古い形を止めていると言える。

馴馬城址

一見ただの雑木林に見受けられるが、龍ヶ崎地方における南北朝攻防の歴史を語る貴重な史跡である。

僅かに残る土塁

遠山城址

その一

旧水戸街道の成井一里塚を過ぎ坂道を下ると、一面水田地帯が広がる。ますぐ前方に見える小高い丘は、まるで牛久沼を遮るかのように立ちはだかっている。行く手には谷津の中を水田が広がり、水鳥が数羽戯れている。小高い丘に続く坂道は、太く一直線に伸びていて、台地下のねがらの道と立体交差している。まるでその先には、御殿でもあるかのような錯覚をあたえる。坂道を恐る恐る登ると、まず、遠山集会場があり、道はそこから細いS字のように曲がった下り坂となり、国道6号線へと続いている。

丘の上には十数件の集落があり、狭い台地上に農家と思える旧家が、まるで肩を寄せ合うかのように建っている。何ともいえない雰囲気が漂う。いったいこの雰囲気は何だろう。集落に立ち入った瞬間に感じる不思議な感覚。それは、よそ者を寄せ付けない強固な雰囲気。そして丘の上にそびえている木々までが頑固に突っ立ているかのように思える。

集会場の前の細い道を北側に進むと、右手(東側)は崖となっていて、まさに台地上を這うかのように伸びた径が続き、やがて鹿島神社と書かれた鳥居が見えてくる。神社の周りは杉の木が数本、あまり人が訪れないのであろうか、境内は青々としたコケが生えている。鳥居の向こうに見える建物は、本殿と言うより、まるで氏神様の祭壇だ。しかし「古さだけはどこにも負けないぞ、」と意思表示しているかのように建っている。狭い境内はすっぽりと土塁に守られた形をしていて、その周囲には馬頭観世音などの石仏が数個あり、それぞれに安政七年、寛政十二年、享保元年と刻まれている。各々の時代を生きた人々の息吹が感じられる。

実は、この小高い丘全体は遠山城という古い城郭があったところで、牛久沼を見下ろす軍事的要塞だった。それは江戸時代より溯ること300年、室町時代初期に造られたといわれている。

遠山町、鹿島神社

その二

室町時代初期、長尾憲景は牛久沼を見下ろす景勝の地遠山郷に居城を築き常陸国河内郡南部を支配した。現在の牛久市西部から伊奈町にかけての郷や村である。もともと、この地域は小田氏の所領であったが、小田孝朝が鎌倉府に反旗を翻し、所領の大半を没収された。鎌倉府における絶大な権力を持っていた山内上杉氏は、その没収した所領の一部を長尾憲景に分け与えた。長尾憲景は山内上杉氏の家臣で、鎌倉府侍所の奉行人を勤めていて、上杉氏からの信望が篤かった。こうして、長尾憲景は鎌倉の荏柄谷に屋敷を構える一方、常陸国遠山郷にも居城を築き、この地方の運営を始めた。そして当時の牛久市域と鎌倉は憲景を介して太いパイプで結ばれる事になった。そのための大きな役割を果たしたのが鎌倉街道下ノ道で、今でも牛久市地域には鎌倉古道ど呼ばれる古い街道が断片的に残っている。

余談だが、鎌倉街道とは、"いざ鎌倉へ〟を合言葉とした鎌倉時代に作られた軍事的な道路で、ちなみに、上ノ道は信濃、越後方面に、中ノ道は奥州方面に、下ノ道は江戸から松戸、石岡方面に延びていて、いずれも鎌倉を基点としていた。

さて、順風満帆だった長尾憲景にも悩みがあった。跡継ぎがいないのである。そして自分自身も病気気味で、これ以上の領地の運営の困難さを悟った。彼は折角所有した領地を山内上杉氏に返すのであるが、この時、強い願いが込められていた。縁者の臼田氏に引き継いでもらいたいと。この願いは山内上杉氏に聞き届けられた。遠山郷を含めた長尾氏の所領は総て臼田氏に与えられたのである。

実は臼田氏も山内上杉氏の家臣で、信太郡、特に霞ヶ浦西岸一帯の領地を与えられていた。つまり長尾氏と臼田氏は共に山内上杉氏の家臣で、更に領地が近い事もあって婚姻関係によって、いっそうの連帯感を強めていた。おそらく、憲景の姉か妹。あるいは娘を臼田氏に嫁がせていたと考えられる。これによって、臼田氏は河内郡の西部を加えた広範囲な領地を支配することになった。しかし、遠山城がそのまま臼田氏の居城になったとは考えにくい。現在の美浦村に臼田館という居城を構えていたため、遠山城はその出城として縁者か家臣を住まわせていたのであろう。

戦国期になると臼田氏は常陸国南部で勢力を振るっていた江戸崎城の土岐氏や牛久城の岡見氏と連携を深めていた。岡見氏は多賀谷氏との戦いに敗れ滅亡するが、羽柴秀吉の天下統一に際しては、臼田氏と土岐氏は共に小田原北条氏に従って秀吉の侵攻を阻止しようとする。しかし時勢の流れには勝てず、両氏は事実上の滅亡を迎える。その後の遠山城がどうなったかは分からない。

遠山城跡付近

その三

はたして、遠山城の本丸はどこにあったのだろうか。総ては推測の域であるが、本丸は、丘の南端の牛久沼が一望出来る場所だったのだろう。その場所は、丘の中でも一際高い平坦な場所で、現在は竹林に囲まれた畑になっている。その場所を少し下ったところに遠山集会場があり、その前の道は掘り切り跡と思われる。そして鹿島神社へ続く舌状台地上の随所に土塁が残っている。恐らく二の丸があったのだろう。そして三の丸の存在は・・・・

遠山城跡をあとに、再び旧水戸街道に戻り牛久方面へ向かうと、向台小学校前の三叉路に出る。三叉路を直進すると、緩やかな下り坂が常磐線の銅像山踏切まで続いている。

実はこの三叉路にはもう一方に曲がる隠れた道がある。三叉路の西側を良く見ると目立たないけれど雑木林に向かって細い坂道が有ることが分かる。この道を一歩踏み込むと右側は小規模の墓地があり、反対側は雑木林が生い茂った藪となっている。更に進むと、畑が広がり、前方に遠山城跡のある高台を望むことが出来る。この道は、現在は農作業のためだけの道であるが、中世においては遠山城本丸と三の丸を結ぶ軍事的に重要な道だったことが考えられる。実は、墓地前の藪の中に、向台土塁があることが専門家によって確認されている。更に向台小学校から300メートル先を、車道を南北に横断する形で、桜塚土塁跡がくっきりと残っている。これらの土塁と、遠山城との関連は、断定は出来ないが、恐らく向台小学校付近に遠山城の三の丸があったのだろう。いずれにしても遠山郷防衛のための土塁と考えられる。

向台小学校前三叉路

竜ヶ崎城と土岐氏

竜ヶ崎第二高校が建っている高台は、かつて竜が峰といわれ、古くから城が築かれていた。さて、誰が築いた城であるか分からないが、江戸崎城主・土岐治英は次男の土岐胤倫(ときたねとも)に竜ヶ崎城の改築を命じている。それ以前は竜崎氏の居城であったとも考えられるが、竜崎氏の古城は別のところという説がある。

土岐治英はその翌年永禄11年(1568)に胤倫を正式に竜ヶ崎城主として配置させた。それは上杉氏対北条氏という対立の枠組みの中で、治英は土岐領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、竜ヶ崎城を中心とした二つの拠点を作り、土岐氏の安定的な支配を目論んだためであろう。

ところがその後、両土岐氏は北条氏の傘下に入り、岡見氏と共に、佐竹・多賀谷氏らと対峙していたのであった。このような状況下で江戸崎城の後を継いだ治綱と竜ヶ崎城の胤倫との兄弟の不和・対立が顕在化したのである。

土岐氏は、この対立の解決への糸口が見い出せないまま、豊臣秀吉の関東侵攻を迎えることになり、天正18年(1590)江戸崎城、竜ヶ崎城は、豊臣方の軍勢によってもろくも攻め落とされた。ここに土岐氏は事実上断絶した。この時の竜ヶ崎城主であった土岐胤倫は幼子頼房を抱え、重臣と共に城を脱出して諸国を流浪した。胤倫は流浪の果ての慶長4年(1599)に没したといわれていが、その子頼房はその後徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の豊島に改めた。その後紀州徳川家の家臣として大坂の陣にて活躍する。その後、土岐に復姓し、出世の糸口を確実に手にしたのである。頼房の子土岐朝澄は徳川吉宗の幕臣となった。

竜ヶ崎前城跡

現・県立竜ヶ崎第二高校

享保12年(1728)6月、伊達政宗の曾孫・伊達吉村が参勤交代の帰り、領地である竜ヶ崎を訪れ時、次の言葉を残している。

「北にあたりて古城あり、東は鹿島の海が見えて眺望かぎりなし」と龍ケ峰から見た風景をを絶賛した。 「北にありて古城あり」は本丸があった位置を示しているのだろう。昭和40年頃迄の龍ケ峰はもっと北に延びていて、本丸があった北側は土地開発のため削られて跡形もなくなってしまった。

「東は鹿島の海が見えて」は、江戸時代の初期ごろ迄は霞ヶ浦が海とつながっていて、竜ヶ崎近くまで入り江となっていたのであろう。そうすると、鹿島の海は龍ケ峰からは充分見渡せる距離である。

竜ヶ崎二高グランド北側の雑木林にくっきりと残る土塁

牛久城と岡見氏

岡見氏と築城

牛久市民及びその周辺に在住の方ならご存知であろう岡見という地名.。竜ヶ崎から土浦へ向かう県道の中間地点に所在するあの岡見こそ、岡見氏発祥の地である。つまり小田城主治久の次男が河内郡岡見村(現在の牛久市岡見)に封じられてからその地名を採り岡見氏としたのである。

時は戦国武田信玄や上杉謙信、織田信長や今川義元などが台頭し、群雄割拠著しい時代、 常総の地でも佐竹氏、結城氏、小田氏など豪族が勢力を誇っていた。岡見氏はその中の小田氏の分家である。

岡見城を拠点としていた岡見一族は次々と勢力を伸ばし治久の三男が牛久の地を固め牛久城主として登場したのが牛久岡見氏の最初であるが、築城はもっと後のことである。それは岡見弾正が河内 郡の中心地郡役所跡に築城したといわれ、年代は定かでない。けれど弾正は天正元年(1573)に小田氏春の旗下として佐竹勢と戦ったことが記されているのでそれ以前であろう。他説として那賀郡国井氏の八代目岡見頼勝(江戸崎城主土岐治頼の次男)が天文初年から永禄年間にかけて築城したともいわれているが、この時代の記録は曖昧である。

岡見弾正

岡見弾正はもともと小田氏春旗下の武将であった。早くから小田勢の先鋒として戦いに参加した。永禄12年(1569)小田氏春が兵一千人を率いて筑波東の小幡(八郷町)に出て柿岡(八郷)付近の侵攻を始め佐竹勢の太田三楽、梶原政影等と戦いを開始した時も,その先鋒となって戦った。

牛久城のかたち

牛久沼東岸に迫り出している舌状台地の先端に位置した平山城の形体をとった大規模な城郭で、本丸、二丸の館、その周りに土塁、空堀で固められた約3ヘクタールの本体部分と、北側に築造された広大な外郭部分で構成されたスケールの大きいい城郭であった。二の丸の断崖上から見ると沼の対岸に逆さ富士が望める景勝地であり、その頃は周囲一帯が沼地で自然の防濠となり、きわめて要害な地であったことが想像出来る。

牛久城における大規模な城郭の必要性は、おそらく理由の一つは牛久城下やその周辺に住む住民が戦火に晒された時の避難場所の確保の為と思われるが、もう一つの理由は井田、高城、豊島氏らが在番にやって来た時、彼らが在留する場所の確保の為と思われる。彼ら在番衆の寝泊りだけでなく、それに伴う食料や武器などを収納する倉庫を建てる為、広大な土地を要したのである。

牛久城跡本体部分全景当時、水田部分迄湖水は達していた

牛久在番

北条氏対佐竹氏の対立の影で、岡見氏対多賀谷氏が代理戦争の如く対立していた。つまり北条氏は佐竹氏攻略の足掛かりに岡見氏は必要で、一方岡見氏は多賀谷氏に対抗する為北条氏の力が必要があった。やがてその関係は岡見氏にとっての北条氏の依存渡が強まり、牛久在番を置くことになる。つまり北条氏支配下の各藩は交代で牛久在番を置き警備にあたった。彼らの居住地が本丸北側を大きく占めていたのである。

大手門跡

大手門は、堀切りのほぼ中央に「喰違い虎口」と「桝形馬出し」を備えた厳重なものであった。牛久沼を見下ろす城中町の一角に市指定文化財として僅かに残って入る。

牛久市城中町に今も残る土塁跡

牛久城の支城及び知行地

岡見氏は多賀谷氏への戦略的拠点として次々と支城を築き兵力を配置した。足高城(伊奈町)、東林寺城(牛久市)、矢田部城(つくば市)、板橋城(伊奈町)、若柴城(龍ケ崎市)などである。知行地として野掘(伊奈町)からくりかけ(つくば市)までの八十六の郷村を領していた。これらの知行地は主に西方、小野川流域から東西谷田川流域にかけて広く分布していた。 東には江戸崎城主.土岐氏が北には土浦の菅谷氏が、南には布川城の豊島氏がいた為、岡見氏の勢力は主に西へ伸びて行った。

足高城址(伊奈町城中)

東林寺城址(牛久市新地)

栗林義長の活躍

栗林義長は幼名を竹松という、出生はさだかでないが、民間伝承では女化ケ原の狐の孫といわれている。

京の都で兵学を柳水軒白雲斎に学び、名前を柳水軒義長という名前をいただく。やがて出生地常陸の国に戻り、牛久の城主岡見氏の武将栗林左京亮の門をたたくと記録されているが、栗林左京亮は、もしかすると牛久支城の足高城の武将だったかもしれない。義長はその後栗林氏と養子縁組し栗林義長と名のる。

天正11年(1583年)14年頃のことである。幾多の戦いで頭角を顕わした義長は北条氏尭によって総大将を命じられる。総大将になった義長は、多賀谷水軍との戦いでは諸葛孔明のごとく火攻め計を考える。戦場は小貝川、当時は水量も多く川幅も広かったのであろう、水軍戦である。義長は夜明け前から味方の水軍を葦の中へ潜ませて敵の来るのを待ち伏せし、一方多賀谷の水軍は数十艘の舟を連ね、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら川を下ってきた。

義長は風を計算しチャンス到来とばかりに狼煙を上げさせ、一斉に襲いかかる。火矢を雨のごとく射かけ油壺を投げ込み敵は大混乱に陥いり多くの負傷者や戦死者を出し敗走し義長軍は大勝利を得たのである。

さらに上総、下総で勢力をはっていた千葉頼胤は佐竹氏と共謀し北条方の小田氏、岡見氏を挟撃しようとしたが、義長はそれを見抜き、大軍を率いて下総地方に攻め入りこれを平定す。

佐竹勢に竜ヶ崎城を落とされ、江戸崎城も攻められた土岐伊予守は義長に援軍を求める。それに答えて直ちに軍を進め竜ヶ崎城を奪い返し、江戸崎城を救った。

こうして幾多の戦場で勝ち進んだ武将も病には勝てず、ついに天正15年(1587年)その生涯を閉じた。享年58才であった。没後岡見氏によって東林寺(牛久市新地)に葬られた。

栗林義長を失った岡見氏はやがて滅亡を迎えるのであるが、それはあまりにも急速な出来事であった。

小貝川

岡見氏の終焉

小田氏滅亡後はそれに変わって岡見氏が勢力を振るい、天正5~6年ころ最盛期を向かえるが、つかの間の栄華であった。

下妻城主多賀谷重経は北条氏を破り、その勢いで矢田部、足高、牛久の諸城を攻め立てる。天正14年まず矢田部城落城、続いて足高城に襲いかかったが、足高城主岡見宗治は守備を固めて篭城、牛久、若柴の城主に援軍を求め善戦したが天正16年力尽きて落城し城を脱出し牛久城へ入る。その後宗治は牛久城主岡見治部大輔と力を合わせて戦ったっが、治部大輔は手兵五騎を従え、茎崎・高崎へ落ち延びる。一方宗治は土浦方面へ落ち延びる(死亡説あり)。こうして岡見氏の牛久城は終焉を迎えた。

その後の岡見氏

岡見治部大輔はその後江戸崎に潜伏していたと伝えられているが定かでない。それからまもなく越前國に移り結城秀康に仕官して500石の知行を与えられる。彼は余生を越前で送り、元和3年(1617)その地で生涯を閉じた。

岡部宗治は牛久落城とともに死亡という説もあるが、一方暫らく土浦周辺に潜伏し、その後慶長6年(1601)に下総布川の松平信一が土浦城主になった時、これに仕えたという説もあり、ようするにその後の彼の足跡は明らかでない。

従軍覚書

茎崎町史を調べていたら面白い記載事項があったので紹介する。

多賀谷氏配下の野口豊前という武人が口頭でのべたものを役人が覚書として記録したものである。

このような覚書は、己が褒賞を少しでも多く貰いたいが為、多少の偽りが含まれる場合が多く信憑性は低いが、しかし当時の戦国武士たちの心情や戦いの状況を理解する上で重要な記録である。

以下茎崎町史(つくば市)より原文のまま転記したものである。

天正十一年(1583)九月八日
矢久・矢田部での合戦で岡見方は鉄砲を使用したが、発砲音に驚いた多賀谷勢がかえって興奮して敵の首を三百八十程取った。
天正十七年(1589)某月某日
多賀谷勢が矢田部の城に在留 している時(この時矢田部城は多賀谷軍に占拠されていた)白硲(つくば市)で牛久勢と対戦し、鉄砲で負傷した。
天正十七年(1589)九月二十四日
足高城下落とされた板橋を槍二本の上に敷き直して攻め入った。
天正八年(1580)某月某日
下妻衆(多賀谷氏)と小田原衆(北条氏)が矢田部城を取り合った時、下妻衆が橋を踏み外して堀底に落ちてしまった。
天正八年(1580)某月某日
牛久東輪寺(東林寺)で下妻衆の糸賀大蔵が牛久衆の槍で馬から突き落とされ殺されそうになたのを救った。又、当方の槍がを蹴落とそうとした敵を下妻衆の小貫殿助が討ち捕った。
天正十六年(1588)十二月二十八日
下妻衆が牛久の東輪寺城を攻めた時、味方の飯村豊後が馬から落ちて危険であったので救出した。又、小茎(茎崎町)の堀の際で敵に追われたが逆に首を七つ取った。
天正十六年(1588)某月某日
矢田部の坊地(茎崎町)に敵(小田原か牛久)が船で上陸せんとしたので、坊地の山へ出かけて行って阻止した。
天正十五年(1587)某月某日
足高城を水攻めにしようとした時、足高衆と槍合戦をしたが、味方がひるんだため、多賀谷信濃以下七名が討たれた。自分等も敵の首を七つ取り、主人重経より礼状を下された。

東林寺と東林寺城

左手に牛久沼を眺めながら三日月橋を渡ると、前方に小高い丘が見える。その丘は牛久沼に突きだした形で横たわっていて、その一角に東林寺という古刹がある。台地下は三日月橋から続く車道となっていて、茎崎(つくば市)方面へと向かっている。車道と平行して桜並木の砂利道が続き、更に東側は稲荷川が流れている。水辺の長閑な田園風景が広がっている。

東林寺。"栗林義長の眠る寺、東林寺"と何かの本に書いてあった。桜並木の砂利道を歩きながら、遠い昔の戦国の世に思いを馳せてみた。

三日月橋から東林寺城址を望む

東林寺は、文明18年(1486)牛久城主岡見治部大輔の開基といわれている(他説あり)。やがて群雄割拠の時代に入ると、ここに城が築かれた。東林寺城である。

牛久城主岡見氏は多賀谷氏への戦略的拠点として次々と支城を築き兵力を配置した。その支城の一つが東林寺城である。東林寺のすぐ裏側が二の丸で、そのやや南側に本丸があった。城主は誰だった.か分からないが、岡見治部大輔直系の者と推測する。

本丸は舌状台地の先端部にやや近いところにあり、そこは曲輪跡を感じさせる広さがある。本丸から見ると、西側は、眼下に牛久沼を見下ろす絶壁となっていて、沼の先には敵陣である泊崎城(多賀谷氏支城)が望める。東側は現在は水田の合間を稲荷川が流れているが、当時は牛久沼がこの当たりまで食い込んでいたのであろう。さらに南東に目を移すと沼向こうに牛久城が望める。このように東林寺城は東西南の三方向を沼に囲まれた景勝要害な平山城で、いざ合戦となれば、舟を用いられたことが想像出来る。

二の丸付近。写真右手は牛久沼を見下ろす絶壁となっている。

やがて、牛久沼周辺で岡見氏と下妻の多賀谷氏との激戦が繰り広げられるのであるが、この戦いで大活躍するのが栗林義長である。

栗林義長は狐の孫と言われた伝説の武将で、岡見氏の総大将として大活躍する。彼は死後、岡見氏によって、東林寺に手厚く葬られたという。未確認であるが、東林寺の過去帳にそのことが記載されている事から、栗林義長は単に伝説上の人物ではなく、実在したと思われる。東林寺城と、栗林義長寺の関わりをいろいろと推測するのも、面白い。 

曹洞宗福壽山東林寺

東林寺は岡見氏滅亡後は一旦廃寺となるが、牛久城を継いだ由良国繁によって太田山金龍寺として再興。由良氏滅亡後金龍寺は本堂を残して龍ヶ崎市若柴へ移転する。その後山口氏によって寛保元年(1741)再び東林寺として再興する。

東林寺城が、どの時点で廃城になったかは分からない。

東林寺裏手に大きな二基の五輪塔が建っている。この五輪塔は、本来東林寺とは無関係の墓で、この寺の開基より時代を遡り室町期に造られたものと考えられている。もともとは東林寺の南側に建っていたが土木工事のため、東林寺境内へ移されたのである。

さて、五輪塔は二基とも像高145センチで地輪部が高く水輪部は円形で火輪部は勾配が大きい。このような形をした五輪塔は平安時代に始まり、鎌倉時代に普及し江戸時代初期まで続いた。

東林寺五輪塔(市指定文化財)

牛久城と由良氏

由良国繁と牛久城

岡見氏滅亡後、牛久領の領主として入城してきたのは、由良国繁であった。彼はもともと上野国金山城(群馬県太田市)の城主で、上野南東部の代表的な領主であった。ところが天正13年(1585)突然北条氏に居城の明渡しを要求され、これを拒否し小田原城に連行された。国繁の母赤井氏は家臣たちと共に金山城に篭城するも北条氏の軍事力の前に敗北す。その後国繁は桐生城(群馬県桐生市)へ退去させられた。以後国繁は北条氏の配下として不本意ながら秀吉に敵対することになるのである。

これより5年後の天正18年(1590)北条氏は秀吉によって滅亡する。国繁もこれに準じて滅亡なることを余儀なくされたのであったが、これを救ったのが母赤井氏である。

彼女は新田義貞の流れを汲む由良家が断絶することに忍びがたい思いを抱いていた。前田利家が上州上野へ入ったおり、赤井氏は孫貞繁を伴い豊臣方に馳せ参じ、不本意ながら北条方陣営として戦ったむねを伝え、由良家の存続を願い出る。利家はその願いを聞き入れ、秀吉へ上奏する事を約束する。その願いは秀吉に聞き届けられ、由良国繁はは常総の地、牛久城の城主となる。この時の前田利家の由良氏への返書を見ると、由良氏一族は新田貞義の後裔で名族であるため、惜しんで存続を認めるというものであり。これは赤井氏が由良氏と新田義貞との強いつながりを主張したためである。

しかし由良氏の牛久城主の座は国繁一代限りであった。国繁没後、その領地は没収となり嫡子に相続権は許可されなかった。その真意は今も謎である。慶長六年(1601年)山口重政が由良氏に代わって封じられ明治維新の廃藩置県までこの地を領したが、城は持たず陣屋風の建物であったという。

国繁の母赤井氏

金山城主由良成繁の室、俗名は輝子という説があるが定かでない。天正6年に成繁没後は揺れ動く時勢の中で由良家を城主のごとく支える。

秀吉から由良家へ与えられた領地5,400余石は赤井氏へのものであった。彼女は領地を子の国繁へ譲り自らは得月停という隠居所を設け妙印尼となる。得月停はその後、妙印尼開山とする曹洞宗得月院となり現在に至っている。

得月院裏手にある妙院尼の墓、五輪塔

由良氏の領地

由良氏の石高は最初5,400石程であったが、加増され約7,000石となる、領地は以下の通りである。

岩崎村(茎崎町) 菅間村(茎崎町) 赤塚村(つくば市) 堀内村(つくば市)下原村(つくば市) 新牧田村(つくば市) 稲岡村(つくば) 中島村(つくば市) 牛久村(牛久市) 洒島村(牛久市) 岡見村(牛久市) 猪子村(牛久市) 東大和田村(牛久市) 東猯穴村(牛久村) 高岡村(伊奈町) 足高村(伊奈町) 野堀村(伊奈町) 狸穴村(伊奈町)

尚、その後由良氏の所領は二度にわたる公収という憂き目に遭い6,000石を失うが、東猯穴村だけは終生由良氏の領地として幕末まで続いた。現在のJRひたち野うしく駅付近である。

由良氏一族の墓は新田義貞の墓と共に竜ヶ崎市若柴金竜寺に今も残っている。由良氏の領地の大部分を引き継いだ牛久藩主山口氏の力の拡大にともない、牛久藩内新地にあった金竜寺は幕府の庇護のもとに牛久沼対岸の若柴へ移った。

若柴城城址

馴柴小学校より北進し、ニュータウンへ向かう大通りを横切ると、前方に小高い丘が横たわっているのが目に付く。

それは稲敷台地と言い、土浦や霞ヶ浦方面まで続いている広大な高台である。その台地の最南端に若柴宿があり、そして北竜台、女化原、牛久へと続いている。 稲敷台地には太古の昔から人が住み、人はそれぞれの歴史を創り、風土を形成し、数々の文化を残して現在に至っている。平成の今日でも古き時代の人々の息吹を感じることさえある。

若柴宿の成立以前の戦国時代には、若柴町字宿畑と言う所に、かつて戦国の山城(平山城)があったらしい。本丸は現在のふたば文化幼稚園裏手の竹藪付近と考えられる。本丸西隣には中城があり、さらにニュータウンへの大通りを挟んで八坂神社付近まで外城が広がっていたらしい。

遺構は住宅建築や道路建設の影響で城跡と判断出来るものは殆どないが、地元の年配者は、今でも八坂神社付近を外城(とじょう)と呼んでいる事や、僅かに残る郷土史資料の中から、若柴城の残影を知ることが出来る。

資料によると、若柴城は牛久城の支城で岡見越前守勝頼が住んでいたと記録されている。

勝頼は江戸崎の土岐治頼の次男で、のちに岡見氏の養子となり、足高城の城主となるが、家督を嫡子に譲ると、出家して伝喜と号して隠居し、若柴城にその身を置いた。

しかし、勝頼はその後も多賀谷氏との攻防では援軍を送るなどの活躍が記録されている。 その後、岡見氏の勢力は衰退し、勝頼も天正16年(1588)に多賀谷氏に諮られ横死したらしい。主を失った若柴城は廃城となり、城下の人たちは宿畑より西隣の丘に移り住み、若柴宿成立に影響を与えたと考えられる。

若柴城跡付近

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