女化原を拓く

牛久市の旧岡田村の南部、龍ケ崎市の旧八原村の東部(貝原塚)や旧馴柴村の北部(若柴と馴馬の一部)を含めたこの一帯は、古くは根本が原あるいは高見が原と呼ばれていましたが、その後狐伝説によって女化原と言われるようになりました。明治になる前までは関東ローム層に覆われ、あたり一面草藪が続く原野が続く場所で、そこに忽然と女化神社が所在し、縁日には人が溢れて別世界となっていました。

明治になり、この原野を最初に開墾したのが紀州藩出身の津田出でした。津田は千葉県と茨城県に跨る未開拓地を開墾し津田農場を開きます。そのため、四国から貧困農民をこの地に連れてきて、開墾に当てました。しかし、女化原は関東ローム層による酸性土で、耕しても耕して稔らない不毛の地だったのです。結局津田の農場経営は失敗に終わり、開墾のために連れてこられた農民たちの苦闘の歴史がはじまります。

一方、東京で蜂印葡萄酒を販売していた神谷傳兵衛は、葡萄なら酸性土でも栽培が出来ることに着眼し、津田農場の未開墾地を入手し、神谷葡萄園を開きました。そして日本初となるワイナリーを建設。後の牛久シャトーです。神谷の成功がきっかけで、明治末から大正時代にかけて、第二期女化原開拓ともいえる竹内農場、岩村農場、伊藤農場、高松農場、林農場等、次々と新たな農場が開設されます。今日の女化を考える上で重要な役割を果たしております。

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