女化神社

住所 茨城県龍ケ崎市馴馬町5379 (牛久市域への龍ケ崎市の飛び地)

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祭神は保食命(うけもちのみこと)で、かつては稲荷大明神といわれていました。後に地名から女化稲荷神社となりましたが、明治2年に保食社に改称、そして明治17年に女化神社に改称され現在に至っています。今も女化稲荷神社と呼ばれることがありますが、正式名は女化神社です。

江戸時代までは、馴馬村の来迎院が管理し、日枝神社とともに、馴馬村の村社でした。来迎院が管理するに至った経緯は、馴馬村在住で稲荷信仰に篤い松田次左衛門が守護するお宮でしたが、幕府から俗家の身で神社を守護することは遺憾であると指摘され、守護を同じ馴馬村の来迎院に譲ったことによります。そして、明治の神仏分離令によって、来迎院から独立した神社となります。こうした歴史があり、現在でも女化神社の一角は龍ケ崎市馴馬町の飛び地となっています。

創建は、社伝によると永正2年(1505)となっていますが、郷土の民話「狐の恩返し」に関連して、天文7年(1538)戦国武将の栗林義長が創建したという説もあります。

大祭は初午祭(旧暦2月初午の日)があり、続いて二の午祭(旧暦2月の二の午の日)、その他、春祭り(3月23日)、秋祭り(11月23日)が行われます。

初午祭は春の農耕のために山々の神を招き講じる行事だといわれていて、江戸時代より近隣のみならず遠方からの信者が多く押しかけ、日ごろは人影のない原っぱが忽然と門前市になったといいます。現在でも近隣や関東一円から信者が集まり、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を祈祷してもらっています。また、植木市や露店が並び近隣から物見遊山で賑わっています。

現在の社殿・本殿は平成14年(2002)3月に再建されました。それ以前の社殿は文久2年(1862)に馴馬村の名主山崎茂右衛門などの寄進により造営されたことが石碑に記録されています。

市民遺産 親子狐の石像

認定日 平成31年3月20日 

龍ケ崎市の飛地にある女化神社の境内に鎮座する,一対の石像である。
 稲荷神社において,狛犬の代わりに狐像が置かれているという例はまれにあるが,女化神社の狐像は同地に古くから伝わる「狐女房の伝説」をモチーフに作られ,三匹の子連れという全国的にも珍しいものとなっている。
 台座の刻印によれば,石像は明治2年(1869年)に東京深川の大黒屋藤助・岡田屋宗兵衛の両名から寄進されたものであり,また,製作者は江戸時代末期から明治期にかけて関東近郊で様々な神社の狛犬などを手掛けた東京の石工・安五郎(高橋安五郎)であることが分かり,当時から女化神社の存在や狐女房の伝説が遠方にまで知られ,信仰されていたことが窺われる。

以上、龍ケ崎市HPより

親子狐の石像

女化神社の民話(あらすじ)

狐の恩返し

根本村の忠五郎は土浦へむしろを売りにいった帰り道、高見ヶ原の山道で白キツネを鉄砲で狙っている猟師を発見したので、大きな咳払いをして、キツネを逃がしてやりました。難を逃れた狐は、若く美しい女人に化け、八重と名乗り「一晩の宿をお願いします」と、忠五郎に近づきました。八重はそのまま居つき、家事や畑仕事などを手伝いました。いつしか二人は夫婦となり幸せな歳月は8年間続き3人の子宝にも恵まれました。

ある日、長女は末子を抱いて寝ている母親を見ると、何と!母は狐の姿をしていました。八重は自分の正体が見破られ悲嘆にくれました。そして「みどり子の母はと問わば女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」と歌を詠み、高見ヶ原の穴に隠れて2度と姿を現さなかったのです。

哀れに思った住民がそこに祠を建て「お穴」と呼ぶようになりました。そして高見ヶ原は女化原と呼ばれるようになったのです。

続、狐の恩返し(栗林義長伝説)

忠五郎の三男竹松は祠から聞こえてくる母の言葉を聞きました。「私があなた達の守り神になってあげるから、都に上がって公家に使えなさい」。その言葉を信じ竹松は都に上がりました。

そして年月が経ち、竹松の子の千代松は兵学を学び神童と呼ばれるようになりました。成長し常陸に帰った千代松は牛久城主岡見氏の武将栗林家の婿養子となり栗林義長と名乗りました。

時は戦国時代、義長は常陸、下総一帯での戦いぶりは見事で、「神霊の宿る特別な男」とい言われ、小田原北条氏の命を受け総大将に抜擢されました。 自分自身を祖母に守られた幸運な男と評した義長は祖母が祭られている祠近くに女化神社を建立しました。

女化神社奥の院

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女化神社に関連する一番古い造営物が奥の院の石の祠になります。これは郷土の民話「狐の恩返しに」に登場する母狐が穴に隠れたところで、「お穴」と言われ、悲劇の狐を哀れんだ人々によって祀られています。