画聖小川芋銭

旧雲魚亭パンフレットより

今、小川芋銭が注目されている!  弱きを助け強きを挫く、その優しい人柄が死後70年の時を越えて、私たちに何かを語りかけてくれる・・・・・・・・・。

慶応四年、江戸赤坂の牛久藩邸大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた。幼名は不動太郎、のち茂吉(しげきち)と改められた。若い頃は画塾彰技堂に入り洋画を学ぶとともに南画にも興味を示し独自の画風を身につける。スケッチ漫画を新聞に発表。俳雑「ホトトギス」などに挿絵や表紙を描くことによって知名度が上がり、やがて横山大観に認められ日本画壇に入る。

「河童の芋銭か芋銭の河童」と言われるぐらい、小川芋銭にとって、河童の絵は代名詞の如く思われているが、芋銭は松尾芭蕉の旅心への憧れから生涯旅を愛し、各地の山水や農村風景を描き、「仙境の画人」・「俗中の仙人」などともいわれている。

昭和十三年永眠、享年七十才、牛久市城中の得月院に眠る。小川芋銭の言葉芸術は自然を離れてはない、芸術は氷遠なりの言葉は、自然なるが故である。画家は筆採る時のみ画を描かず、膳に向ふ時も暁の寐悟めにも方寸必画を描く、荘然として野を行く時猶描く人なり。実物写生を怠らず実物を画にせんと思はず、実物から画を教えらるるやうに工夫すべし。只性未の鈍根自自然の正路に随ひ、行履の痕のあやふやならざりしのみ、.且つ我自然観の表現手法として水墨を第一義的に置き候は、可成古きよりの感照に候。情致の線の極所を求めて工夫致居候、極所は美にてはなく、超越的玄妙なるものに帰し可申候、美を八釜敷云出したるは西洋舶未にて、.東洋的には美は極所に無之候。

参考文献

  • 「小川芋銭ー聞き歩きい逸話集」   
  • 牛久町(現牛久市)図書館発刊「芋銭つれづれ」-朝日新聞-(北畠健 著)
  • 「小川芋銭展」利根町教育委員会牛久市生涯学習課制作
  • 雲魚亭パンフレット牛久昔話「小川芋銭」 牛久市図書館発刊

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