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牛久シャトー

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牛久シャトー
牛久シャトー

牛久シャトーが出来るまで

牛久シャトーの創業者である神谷伝兵衛は安政3年(1856)三河国松木島村(現愛知県西尾市一色町)の貧困家庭の六男として生まれます。幼くして働きに出て、酒樽造りや姉の嫁ぎ先で商いの見習をし、11歳にて独立し雑貨の行商などを行って商売のノーハウを身に着けました。明治6年(1873)18歳の伝兵衛は横浜のフランス人が経営する酒類醸造場で働いたことがきっかけで、酒造に興味を抱くようになりました。明治13年(1880)東京浅草に一杯飲み屋「みかはや銘酒店(後の神谷バー)」を開業します。その飲み屋で販売したのが輸入葡萄酒を原料にし、日本人好みの甘口にした再製葡萄酒でした。これが評判を呼び、明治18年(1885)に「蜂印葡萄酒」、その翌年「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」の名で売り出すと、海外でも高い評価を受けました。こうした成功により伝兵衛の新たな挑戦が始まります。自分のところでも葡萄酒が作れないだろうかと、葡萄栽培に適した酸性土の土地を探したのです。

ちょうどそのころ、女化原の津田第七農場が破綻し、その一部が払い下げられました。津田第七農場の破綻の大きな要因が、野菜穀物の栽培に不適切な酸性土だったからです。しかし、そんな土壌だからこそ葡萄栽培には適した土地だったのです。

その中で、伝兵衛は牛久駅近くの物資輸送も便利な場所に目を付け、荒れ果てた開墾農地を購入し、明治36年(1903)神谷葡萄園を開園しました。そしてレンガ造りの醸造場・事務室・貯蔵庫などを建設しました。これが日本初の本格的なワイナリー「シャトーカミヤ」(後の牛久シャトー)です。設計は辰野金吾の門下生岡田時太郎です。

建設間もないころ、皇族や当時の政財界の著名人が頻繁に招かれ宴が催されていたようです。資料館に展示してある写真を見ると板垣退助も来ていたことがわかります。

文化財として

近代化産業遺産に認定

平成19(2007)年11月 経済産業省が、日本の産業の近代化に貢献した設備や建造物などが持つ価値を、地域活性化に役立てることを理由に、「シャトーカミヤ(現 牛久シャトー)」は国産ワイン醸造の発展に貢献したことが認められ「ワイン」の遺産群として認定された。

国指定重要文化財

平成20年(2008)年6月9日 旧醸造場施設3棟が「最初期の本格的ワイン醸造場施設」として、文部科学大臣から国の重要文化財に指定

(文化庁プレス発表資料より)最初期の本格的ワイン醸造場施設(近代/産業・交通・土木)牛久シャトー旧醸造場施設 3棟(事務室、醗酵室、貯蔵庫)
牛久シャトー旧醸造場施設は、神谷傳兵衛が創設したワイン醸造施設で、現存する事務室、醗酵室、貯蔵庫は明治36年9月竣工とみられる。
本施設は、明治中期の本格的な煉瓦造ワイン醸造所の主要部がほぼ完存しており、高い歴史的価値がある。とりわけ醗酵室は、各階ごとに配された設備構成等から当時のワイン醸造工程を窺うことが可能であり、産業技術史上も重要である。
また、事務室は、シャトーを名乗るに相応しい意匠を有し、明治中期の煉瓦造建築の意匠水準を計るうえでも価値が高い。

日本遺産

令和2年(2020)年6月 ストーリー「日本ワイン140年史~国産ブドウで醸造する和文化の結晶~」が日本遺産に認定。(牛久市と山梨県甲州市が共同申請)

宮光園(山梨県甲州市)と共に、日本ワイン関係の文化遺産施設として継承されてる点や、明治時代に国営では果たせなかったワイン醸造を地域の特性を生かして民間の力で成し遂げるなど、人と土地が結びついた物語に夢を感じさせる点が評価されました。