明治天皇女化行幸

牛久市街地の中心より少し外れて上町があり、昔の宿場の面影を残す古い町並みが続いている。旧街道を牛久沼方面へ向かうと途中右手に門構えの旧家があり、正門の脇に石塔が立っていて、「明治天皇行在所」と掘ってある。

これは明治17年の明治天皇女化原行幸の際の宿所を記念した碑で、牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。天皇行幸は当時としては一大センセーショナルな出来事で、そのために牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の新道(現国道6号線)の施設など、明治天皇の権力の大きさが伺える。

背 景

明治15年1月『軍人勅諭』によって、陸、海軍の軍隊は天皇直属のものと規定され、明治天皇の権力が絶対的なものとなった。余談であるが、この『軍人勅諭』は太平洋戦争敗北まで続き、旧軍人の精神教育の基本とされ、日本を泥沼の戦争に引き立てた諸悪の根源となった。

当時の日本は西洋諸国に負けじと富国強兵が叫ばれ、軍隊の編成をプロシア(ドイツ)に見習い近代化が勧められていた。

そのような状況の中で、明治17年11月27日から12月10日の14日間、女化原に於て近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が行われた。明治天皇の女化行幸は、この演習の叡覧のためある。

当時の女化原は、既に津田農場による入植・開拓が始まっていたとは言え、大部分は荒地で広大な原野が続き近衛砲兵大隊の演習に最適の場所と思われた。また、東京から60kmと比較的近いので演習の場所に選ばれたのだろう。

近衛砲兵大隊、大砲赦射的演習

近衛砲兵大隊は約1000名規模の大演習で、日程は前記の通りで、クルップ式七珊知半鋼製野砲八門で大隊を編成し、動的射撃演習と旧式砲、臼砲との比較射撃の演習が行われ、その最終段階が天覧射的演習となった。

津田農場入植者の話によると、「家屋がちょうど着弾点にあたるため、一時避難した。クルップ製野砲の打ち出す砲弾の炸裂する音はすさまじく、家屋は砲弾の破片で損害を受け、射撃は夜間まで続けられ、みんな肝を冷やした」と記録されている。

このように、演習は如何にも凄まじく、実戦的であった事が伺える。

明治天皇の女化原行幸

記録によると12月6日午前8時5分、東京を出発、随行者は、侍従長公爵徳大寺實則、貞愛親王、能久親王、参議伯爵山田顯義(司法卿)、宮内大輔伯爵、吉井友實、彰仁親王近衛都督、その他内閣大書記官や近衛士官等大勢であった。一行は千住より陸前浜街道を北上し、松戸で千葉県令の奉迎を受け、我孫子で1泊し、翌7日利根川を船で渡り茨城県令の奉迎を受ける。そして午前11時55分に牛久行在所に到着となっている。

12月8日は曇りで寒さが著しく、天皇は前日より腸の病に罹り、予定の時刻を変更し、午後12時30分行在所を出発、約30分程(推測)で女化原に到着。そして稲荷神社宮司の家にご休憩後、射撃演習場に到着、近衛將校等一同に謁を賜された。引き続き、体調思わしくなく馬車の上よりの天覧となった。夜間演習も天覧の予定であったがそれを貞愛親王及び能久親王に命じて代行となった。

『明治天皇紀』によると、「女化原は牛久村の東方里餘の地にあり、周圍藪里茫々たる瘠薄の草野なり、---」「牛久村より此處に至る里餘、一細道を通ずるに過ぎず。馬車を驅る能はず、村民之を憾み、草莽を闢きて坦道を作り、車行に便せんとす、傍近の老若皆臻りて工を助く、二日にして成る、今の臨幸道と稱するも是れなり」と記録されている。これにより、当時の女化原が一面藪に覆われた寂しいところであった事が伺える。また天皇のために臨幸道が村民を動員して改修された事が記されている。

明治天皇牛久行在所(牛久市上町)

明治天皇駐蹕之碑記念公園

住所 茨城県牛久市女化町101−1

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かつてこの場所は高松彰一郎と英一郎親子が運営する高松農場の一角でした。高松彰一郎は龍ケ崎を代表する豪商で、大正10年(1921)高松個人で、明治天皇駐蹕之地記念碑を建立しました。そして記念公園は平成元年(1989)高松みち(高松英一郎の妻)が牛久市に寄贈したものです。