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文村横須賀(現茨城県利根町)

長女(はな)が嫁いで以来、その嫁ぎ先である弓削家(茨城県北相馬郡文村・現利根町横須賀)をたびたび訪れる芋銭であったが、昭和10年10月から12年9月までの2年間は遂にここの住民となったのである。

それは仕事の都合で弓削家が一家を上げ長期的に家を空けることになり、芋銭がその留守番役を引き受けたためであった。芋銭は始め、ここを隠棲の地として、静かな気持ちで絵を画きたかったのであろう。ところが、文村に移ったことが世間に知れ渡り、来客の対応に追われたという。文村横須賀は、成田線布佐駅(我孫子より3駅目)からタクシーで約10分の近さだった。牛久と比べると東京から近かく、以前にも増して、訪問客が増えたのである。 そのような訪問客を謝するため、玄関先に掲げた「面会謝絶」の貼り紙さえ、芋銭の書なら高価だからと、引きちぎられたほどであった。

横須賀に滞在した2年間に制作した作品数は大小およそ60を数え、それらの大部分は晩年の代表作となった。その中で特に有名な作品に「湖上迷樹」、「桃花源」「古文水土冝・清夜吟」がある。もちろん俳画などの小品も多数制作している。

利根町の古老たちの記憶によると、「カッパのイモせん」などと親しく呼んでいたことを記憶していると言う。単に絵が巧かっただけでなく、人格にも優れていた一面を知ることが出来る。