芋銭さんの人となり

人となり

牛久町(現牛久市)図書館発刊の「小川芋銭ー聞き歩きい逸話集」に小川芋銭と縁が深かった方々からメッセージが寄せられている。それらの一頁一頁を読むと、「芋銭さんは偉ぶらない普通のおじさんで、偉ぶらないから余計に偉く感じる」と言う意味のことが多く書かれている。また、「芋銭さんは、貧しい人にはただで絵を描いてくれるが、金持ちには高く売りつけた」と、この言葉は恵まれない人間への愛情が並大抵でなかったことをよく示している。

明治になって、近代国家へと様変わりした日本であるが、精神構造だけは江戸時代となんら変わらなかった。それは他国に負けない軍事力と、精神力を備えようとする日本にとって、封建主義的な軍国主義教育が必定であったからだ。そのような時代の教育を受けながら、芋銭は世の中の時流に乗ることもなく我が道を進んだ。威厳こそが美徳と思われた時代、画家として大成し有名になってからも、決して偉ぶらず、愛するべき隣のおじさんであった。では、芋銭のそういう気質はどこで育ったのだろうか。

生まれた時から体が弱かった芋銭。非弱な体での丁稚奉公は苦しかっただろう。そんな芋銭を救ったのは、画家への志であった。幸い、画塾彰技堂で本多錦吉郎に絵を学ぶ事が出来た。ここで西洋画を学んだ芋銭であるが、絵だけでなく、行儀作法も厳しく教えられたという。人間若い頃の修行が大切だというから、芋銭はここでの学習で人間性を培ったと思われる。その後南画を学び、やがて本格的な日本画家へと成長する芋銭であったが、その過程において老荘思想を勉強している。難しい荘子の書を何巻も読んだという。この老荘思想が芋銭の人間哲学に大きく関わっていることはいうまでもない。

金を貯めることの無意味さ。それは権威主義への反発でもあり、芋銭は常に自然体という宇宙の法則に従って生きてきた。

芋が買えるだけの銭があればいい」。この言葉が芋銭の人間哲学を如実に表している。

社会主義者と間違えられて

貧しい人には優しく、権威主義を嫌う芋銭にとって、当時の社会主義者幸徳秋水らと、会い通じるものがあった。幸徳秋水が創設した「平民新聞」に風刺画を送っているから、親しく交流があったことは確かだ。しかし、芋銭は幸徳ら社会主義者とは一線を画していた。なぜなら芋銭は単なる絵描きであり、俳人であった。争いごとを嫌う芋銭にとって、政治活動より、世の中の矛盾不条理を絵の中に託そうとしたのである。

こんなことがあったという。幸徳秋水事件に引責して、取締りが厳しくなった明治44年ごろ。芋銭は牛久沼のじゅん采を瓶につめ、東京の友人宅に届けるため、常磐線で上野に向かった。ところが上野駅を降りたところで、警察に連行されたのである。手にしたじゅん采を火炎瓶と間違えられたのである。

こういう間違いが起きるほど、当時芋銭は官憲から要注意人物としてマークされていたのである。

犬田卯・住井すゑ夫妻を救った一枚の絵

まだ作品が思うように売れない時代の住井すゑは夫の犬田とともに貧窮に喘いでいた。住井は、この貧窮を乗り切るため芋銭のところに相談に行った。用は恥を忍んでお金を借りにいったのである。そうしたら、芋銭は一枚の絵を描いてくれたという。「これをお金に換えなさい」という意味であった。さっそく、住井すゑはその絵を高く売り、当面の生活費を稼いだのである。その絵を買った相手は、当時売り出し中の作家、吉川英治であった。

城中の散策路にて、改善一歩

牛久市城中町を散策すると三叉路でお目にかかる道標・改善一歩、よく見ると大正11年4月建設と刻んである。さらに詳しく調べると、小川芋銭の力で建設されたものとわかった。

大正の時代、城中の青年会が道標を建てることを決めて、芋銭に相談した。計画を聞いた芋銭は、木の柱ではすぐに腐ってしまうから石柱にするようアドバイスをした。アドバイスだけでなく費用も出したという。

青年会ではその石柱に芋銭の名前を刻もうとしたら、当人からの強い要望で名前の代わりに「改善一歩」と刻んだ。世の中を善い方へ進めるという意味だったが、皮肉にも以後の歴史を省みると、芋銭の気持ちとは裏腹に暗い世の中へと進んでいった。

売名行為的な善意を極端に嫌う芋銭。芋銭の死後、芋銭を敬愛する人によって建てられた「河童の碑」には、この精神が引き継がれている。建築に労のあった人々の名前は一切刻まれていない。真の善意とは何なのかを、後世の人たちに問うている。

改善一歩と刻まれた道標

城中の散策路にて、句碑

五月雨 月夜に似たる 沼明り  芋銭子と刻まれた句碑が、三日月橋地区公民館に建っている。

これは牛久沼を愛する芋銭の、沼を題材にした代表作であろう。芋銭が活躍したした時代の牛久沼は、沼底が見えるほど透き通っていて綺麗だった。また、沼で取れる川魚やじゅん菜はなによりも好物だったという。

彼が河童を描くきっかけになったのは、老荘思想の影響もあるだろうが、何よりも目の前に広がる美しい牛久沼こそが、大きな要因であろう。

その牛久沼は、いつの時代か、じゅん菜が取れなくなった。沼を泳ぐ魚は鯉や鮒どころか、外来種が幅を利かせている。もしも芋銭が今の世に生きていたなら、この牛久沼を見ても、河童をイメージすることはなかっただろう。

  • 芋銭直筆の句碑
  • 三日月橋地区公民館に設置された芋銭像

城中の散策路にて、得月院

牛久沼を見下ろす城中町の一角に曹洞宗得月院がある。沼を愛し、沼の風土を描き続け、沼のほとりにて生涯を終えた小川芋銭。牛久の歴史を刻んだ榧の大木に見守られながら芋銭はこの寺に眠っている。

芋銭の墓は本堂裏手小川家代々の墓に囲まれて建っている。残念ながらこの場所から牛久沼は見えない。しかし前方の林の方向に足を進めると木々の隙間から僅かに沼を望むことができる。さらに林の中に足を踏み入れると牛久沼が遠くにはっきりと望める。芋銭が愛した牛久沼は様変わりしてしまったが・・・。

  • 芋銭の墓
  • 得月院から望む牛久沼