住井すゑの軌跡

1902年 0歳

1月7日 奈良県磯城郡平野村(現在の田原本町)にて、父住井岩治郎と母さとの間に生まれる。三男三女の末子で、兄に長男勝治郎、二男益太郎、三男辰蔵、姉に長女ならゑ、二女ますゑがいる。
家業は、大和木綿の製造業と農業で裕福な家庭であった。

1906年 4歳

糞が汚いという思いが強くなり便所に行かず着衣を汚すことが多くなる。そのことによる父と長兄の侮蔑的叱責からすゑは絶望のあまり目を閉じてしまう。

1908年 6歳

一番好きだった兄辰蔵が大阪船場の商家に見習い奉公に出る。
4月、平野村尋常小学校に入学。学校になじめず、教室でただ一人で誰とも口をきくことがなく、欠席も多かったが、担任の川村とよ先生は優しく接してくれた。
小学校入学以来、2人の姉の見よう見まねで編み物を始める。編み物は終生の趣味となる。
11月、耳成山に行在所を構え、陸軍秋季特別大演習が行われた。すゑは姉とともに演習を見に行ったが、月光に光る銃剣の列を見て立ちすくむ。その後、あるお百姓さんが天皇の糞を行在所跡で見つけ、それを家宝としている話を聞き、天皇も普通の人間と考えるようになる。その後糞に対する劣等感がなくなり活発な少女へと変わっていく。
この頃、被差別部落の実態を知り、こんな差別を許しておいてなるものかと、子ども心に思うようになる。

1910年 8歳

6月、朝礼で校長から罪悪人として幸徳秋水の事件を聞かされるが、しかし反戦と平等を訴えた幸徳秋水の思想に共鳴する。

1911年 9歳

5月、大好きだった川村先生が結婚のため学校を去る。(この先生がいなかったら、登校拒否の子になり、落ちこぼれの憂き目をみていたかもしれぬと、後年語っている)
兄辰蔵から送られてくる雑誌を愛読する。「太陽」「冒険世界」「新小説」などの雑誌や、田山花袋や徳田秋声の文を読み、文学に対する憧憬を強める。
家業の製造業を廃業し、以後質素な生活になる。

1914年 12歳

3月、小学校を首席で卒業。
4月、町村立の田原本技芸女学校に入学。在学中より、「少女世界」「文章世界」「文章倶楽部」などに投稿し、しばしば掲載される。
博文館の雑誌を通して編集者の犬田卯と知り合いになり文通を始める。

1918年 16歳

技芸女学校在学中に独学で小学校教員資格所得。
4月、多小学校に准訓導として、1年間教師をつとめる。

1919年 17歳

講談社の婦人記者に応募し、採用され、上京。駒込林町の双葉館で下宿生活をはじめる。
12月 雑誌「講談倶楽部」新年号広告の競作で一席になり、その後も講談社の語り草になる。
犬田卯、博文館を退社。雑誌「農業世界」に書いた農地解放の評論が筆禍事件を巻き起こしたためである。すゑは孤立無援の犬田を援助する。
講談社につとめる傍ら童話を書いて原稿料を稼ぐようになる。

1920年 18歳

女性社員差別に抗議して講談社を1年で退社、執筆活動に専念。

1921年 19歳

8月 はじめての長編書き下ろし小説『相剋』を筆名住井すゑ子で出版、生田長江から激賞される。その後の農民文学への可能性をしめした作品となる。
10月 犬田卯と結婚。瀧野川中里の三間ほどの借家で生活。
東京社「少女画報」、実業之日本社「少女の友」「日本少年」、博文館「少女世界」「少年世界」や「野衣雑誌」などの雑誌に筆名で執筆。
このころより犬田卯の喘息の発作が始まる。

1922年 20歳

3月 全国水平社創立大会が京都の岡崎公会堂で開かれたのを新聞で知り、水平社宣言を雑誌「種蒔く人」で読み感動する。

1923年 21歳

5月 長男、章誕生とともに、婚姻届を提出。
9月 関東大震災に遭うが、さほど被害はなかった。
10月 病気治療のため牛久より上京した小川芋銭と初対面する。

1924年 22歳

3月 犬田卯は吉江喬松、中村星湖、石川三四郎らと、農民文芸研究会、後の農民文学研究会を結成する。

1925年 23歳

5月 杉並町成宗の4DKの借家に引っ越す。

1926年 24歳

3月 長女、かほる誕生。

1928年 26歳

義父藤吉が死去、葬式代がままならない状態だった。

1929年 27歳

1月 二女、れい子誕生。 
11月 『大地にひらく』が読売新聞創設55周年記念懸賞小説の2位に当選、賞金1000円を手にする。夫の卯は農地解放をテーマにした小説『村に闘う』を自費出版したが、発禁処分を受ける。そのためすゑは罰金20円を支払う。その後も度々の罰金のため、童話のほかに探偵小説や剣豪小説も執筆するようになる。

1930年 28歳

1月 高群逸枝が中心になってはじめた「無産婦人芸術連盟」に参加。メンバーは主にアナキズム系の女性たちであった。
3月 連盟が月刊雑誌「婦人戦線」を翌年の6月号まで解放社から刊行。すゑはほとんどの号に小説や評論を寄稿した。
4月 懸賞小説「大地にひらく」が、読売新聞朝刊にて連載。
5月 読売新聞社講堂において無産婦人芸術連盟と、卯らの全国農民芸術連盟が共催で講演会を開催。すゑは二女、れい子を抱いて登壇し、「母性は起つ」と題して講演した。

1931年 29歳

2月 二男、充誕生。
4月 「村の浮浪者」が「精鋭十人傑作集」に収録。

1932年 30歳

犬田卯が主宰する「農民」11月号が発禁処分、続いて12月号、1月号と立て続けに発禁になり、罰金の支払いと刊行を継続することがままならず、小川芋銭に援助を仰ぐことになる。

1933年 31歳

9月 雑誌「農民」廃刊。卯の喘息の発作はますます激しくなる。
大連新聞に「母性戦線」を連載。

1934年 32歳

4月 三男、修が誕生もわずか40日で死去。

1935年 33歳

7月 戦火を避けるとともに卯の病気療養を兼ねて家族そろって卯の郷里、牛久村城中(現在の牛久市城中町)に移る。その心境を、「わがいのち おかしからずや 常陸なる 牛久沼辺の 土と化らむに」と記した。また牛久沼を、「これは大地のえくぼだ」と感じる。すゑはここで執筆収入と僅かな畑で食糧自給の生活を決意する。

1938年 36歳

6月 大洪水により牛久地方は腸チフスや疫痢がはやったが、すゑは手持ちの薬で多くの病人を救った。
10月 すゑの母、さと死去。
11月 軍国主義ファシズムに協力する文学者の団体「農民文学懇話会」が発足した。病弱の卯の代理で、すゑが発会式に出席した。

1940年 38歳

9月 『農婦譚』を青梧堂から出版。

1941年 39歳

4月 『子供の村』を青梧堂より刊行。
12月 短編小説集『土の女たち』を青梧堂より刊行。「婦人公論」「中央公論」などにたびたび文章を寄稿。

1942年 40歳

1月 『子供日本』を青梧堂より刊行。
11月 『土の女たち』を日月書院より再刊。雑誌「農政」に「土の寓話」を長期連載。農民文学作家として頭角を現す。

1943年 41歳

2月 『-尊皇歌人-佐久良東雄』を精華房より刊行。
8月 長編『大地の倫理』を日独書院から刊行。
11月 『日本地理学の先駆-長久保赤水』を精華房より刊行。
このころから小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話などをたびたび執筆。またNHKラジオの「文芸放送」ですゑの作品がたびたび朗読され、知名度が増した。

1945年 43歳

8月15日、敗戦を迎える。

1946年 44歳

7月 憲法草案を読む勉強会に出席するが、天皇制の記載に納得せず席を立つ。卯の病状が悪化する。
雑誌「婦人倶楽部」や「婦人と政治」等に次々と作品を発表。
児童文学作品を書き続けたのち、小説活動に復帰。

1947年 45歳

5月 新潮社の童話雑誌「銀河」に作品を発表。

1948年 46歳

「銀河」6月号に掲載された童話「飛び立つカル」が、のちに三省堂の国語教科書に掲載される。しかしすゑは掲載料が支給されなかったことにクレームをつけた。これを切っ掛けに謝礼を出すことが一般的になった。

1949年 47歳

雑誌「リベルテ」に短編をたびたび発表。小学館の学習雑誌に児童文学を毎号発表。掲載は10年以上間続く。

1951年 49歳

雑誌「農民文学」に短編小説をたびたび発表。

1952年 50歳

11月 「みかん」で第1回小学館児童文化賞(文学部門)を受賞。

1954年 52歳

6月 長編『夜あけ朝あけ』を新潮社より刊行。第8回毎日出版文化賞を受賞。その後、映画化、劇化、ラジオ放送などで広く話題をまいた。

1955年 53歳

10月 夫の卯が意識不明となり、土浦の病院に入院。衰弱性神経症と診断された。すゑは病院に泊まり込み、看病の傍ら原稿を書き続ける。

1956年 54歳

夫、卯は入退院を繰り返し、4月自宅療養となる。
『夜あけ朝あけ』が劇団民藝で映画化。監督の若杉光夫によって原作に忠実に映画化される。

1957年 55歳

7月 夫、卯が逝去。享年66歳。すゑの腕のなかに倒れ息を引きとる。葬儀は無宗教で行われた。
10月 犬田卯とすゑの共著による『愛といのちと』が大日本雄弁会講談社から刊行。2人の往復手記をすゑがまとめた。

1958年 56歳

3月 犬田卯著『日本農民文学史』の印税を東京青山の無名戦士の墓地拡張費に寄付し、その縁で夫の遺骨の一部を同所に納骨する。
3月 部落解放同盟の東京事務所を訪れ、同盟の運動に文学方面で参加を申し出る。
5月 京都の部落問題研究所を訪れる。引き続き奈良市で開催された第3回全国部落婦人集会に参加し、はじめて部落問題研究所の木村京太郎に会う。木村の少年期の体験は『橋のない川』の主人公、畑中孝二の記述と重なる部分が多い。
6月 長編小説『向い風』を大日本雄弁会講談社から刊行。つねに圧迫されてきた農民像を浮き彫りにし、代表作「橋のない川」へのステップとなった。
7月 部落解放同盟の紹介で和歌山県朝来に数日泊まり込む。そこでの勤評闘争や、映画「つづり方兄妹」をみて泣く子どもの姿から、「差別される人間の痛みの千分の一、万分の一がわかったような気がした。」と語り、いのちがけの闘いを決意し、「橋のない川」の執筆に取りかかる。

1959年 57歳

1月 「橋のない川」が部落問題研究所の雑誌「部落」1月号から翌年の10月号まで、22回連載。
4月 広島の原爆資料館を訪れた。

1960年 58歳

2月 すゑの最愛の兄、辰蔵死去。享年77歳。

1961年 59歳

9月『橋のない川』第1部を新潮社より刊行。
12月『橋のない川』第2部を書き下ろし刊行。当初は2部上下巻で完結の予定だった。以降、『橋のない川』はすべて書き下ろしとなる。

1962年 60歳

1月 部落問題研究所の所員により『橋のない川』出版記念会を催した。

1963年 61歳

2月 講談社の日本文学全集14巻に「夜あけ朝あけ」が収録。
3月 『橋のない川』第3部を新潮社より刊行。
6月 『地の星座』を汐文社より刊行。『橋のない川』の児童小説版として被差別部落問題を追求。

1964年 62歳

4月 『橋のない川』第4部を刊行し、ひとまず完結のかたちをとり、巻末に「あとがき」を記した。その直後から拒食症になり、はじめて入院体験をする。以後数年間スランプ状態に陥る。
5月 劇団葦が「向い風」を公演。

1965年 63歳

1月 『夜あけ朝あけ』新潮文庫版刊行。
7月 文化座が「向い風」公演。

1969年 67歳

2月 ほるぷ映画社によって「橋のない川」が映画化、監督は今井正。映画は芸術点の高い仕上がりだったが原作に忠実とは言えなかった。

1970年 68歳

4月 ほるぷ社によって映画「橋のない川」第2部を公開。監督は同じく今井正。しかし、部落解放同盟は、この映画は部落差別を助長する映画であるとして糾弾する。
11月 『橋のない川』第5部を刊行。

1972年 70歳

7月 『夜あけ朝あけ』を「理論社の愛蔵版わたしのほん」として理論社より再刊。

1973年 71歳

11月 『橋のない川』第6部を刊行。2度目のあとがきを記し、600万部を超すロングセラーとなったシリーズの一応の完結とする。

1974年 72歳

3月 『愛といのちと』を理論社より再刊。
4月 『向い風』を理論社より再刊。

1976年 74歳

6月 朝日ソノラマ『私の歩んだ道』に「人間平等への願い」を収録。
10月 家の光協会刊『土とふるさとの文学全集』第13巻に「向い風」収録。

1978年 76歳

自宅敷地内に「抱樸舎」を建てる。

12月 長編『野づらは星あかり』を新潮社より刊行。『長久保赤水』上下巻を筑波書林より再刊。

1979年 77歳

4月 新潮社現代文学43『住井すゑ』を新潮社より刊行。「橋のない川」第1部、「夜あけ朝あけ」収録。
雑誌「部落」に「牛久沼だより」を4月より翌年3月まで、連載。

1980年 78歳

12月 丸岡秀子ほか共著『嫁と姑』(農山漁村文化協会)に「私たちはお互いにもっと語り合いましょう」を収録。

1981年 79歳

2月から5月にかけて、『橋のない川』第1部から第6部までの新潮文庫版が刊行される。

1982年 80歳

9月 抱樸舎で公開学習会が始まる。
9月 『向い風』新潮文庫版刊行。
10月より翌年の6月にかけて、河出書房新社より住井すゑとの絵本集を刊行。『まんげつのはなし』田島征彦絵、『たなばたさま』滝平二郎絵、『ピーマン大王』ラヨス・コンドル(ハンガリー)絵、『かっぱのサルマタ』佐野洋子絵、『空になったかがみ』ハタオ絵

1983年 81歳

5月 『橋のない川』の中国語訳「没有橋的河」の刊行がはじまる。遅叔昌訳。
7月 『農婦譚』上下巻を筑波書林から再刊。
8月 エッセイ集『牛久沼のほとり』を暮しの手帖社から刊行。『野づらは星あかり』新潮文庫版刊行。

1984年 82歳

7月 『愛といのちと』新潮文庫版刊行。
11月 『八十歳の宣言-人間を生きる-』を人文書院より刊行。

1985年 83歳

8月 上坂冬子、佐藤愛子ほか共著『女たちの八月十五日』に「愛する故に戦わず」を収録。対談集『いのち永遠に新し』を労働旬報社より刊行。
11月 『いのちは育つ-抱樸舎から-』を人文書院から刊行。

1986年 84歳

1月 灰谷健次郎との対談『われらいのちの旅人たり』を光文社より刊行。
4月 毎日新聞「女のしんぶん」に連載したエッセイ集『地球の一角から』を人文書院より刊行。
6月 童話『ふたごのおうま』を河出書房新社より刊行。イワン・ガンチェフ絵。

1987年 85歳

1月 斉藤公子との共著『女性は地球をまもる』を創風社より刊行。
11月 新日本出版社刊の日本プロレタリア文学集23『婦人作家集(3)』に戦前に発表した短編・評論4作品「土地の代償」「搾取網」「土地の反逆」「農村雑景」を収録。

1988年 86歳

5月 澤地久枝対話集『語りつぐべきこと』(岩波書店)に「女たちが地球をまもる」収録。
6月 住井と寿岳文章の3日連続対談が京都で行われる。
12月『わたしの童話』を労働旬報社より刊行。

1989年 87歳

11月 今井正と映画「橋のない川」について対談。『今井正「全仕事」-スクリーンのある人生-』(ACT)に収録。
7月 『わたしの少年少女物語』を労働旬報社より刊行。
8月 福田雅子との対談『水平社宣言を読む』を解放出版社より、『住井すゑ・初期短編集1「農付イソップ」』を冬樹社より刊行。
9月 寿岳文章との対談『時に聴く-反骨対談-』を人文書院より刊行。
10月 『住井すゑ・初期短編集2「土の女たち」』を冬樹社より刊行。
11月 『わたしの少年少女物語Ⅱ』を労働旬報社より、ブックレット『さよなら天皇制』をかもがわ出版より刊行。

1990年 88歳

5月 エッセイ集『続 地球の一角から』を人文書院より刊行。
6月 『住井すゑ・初期短編集3「村に吹く風」』を冬樹社より刊行。
『橋のない川」英語訳「The River with No Bridge』スーザン・ウィルキンソン訳がチャールズ・E・タトルより刊行される。

1991年 89歳

1月 住井すゑ編「日本の名随筆99 哀」を作品社より刊行。『食品汚染-食と健康からみた輸入農産物-』(若月俊一ほか共著)を労働旬報社より刊行。

1992年 90歳

2月 『地の星座』上下巻を汐文社から復刊。
5月 東陽一監督の映画「橋のない川」が東宝系映画館で公開される。
5月 『橋のない川』新装決定版全6巻が新潮社より刊行される。
6月 日本武道館で講演「九十歳の人間宣言-いまなぜ人権が問われるのか」を開催。8500人の聴衆が集まる。
6月 『21世紀へ託す-「橋のない川」断想-』を解放出版社より刊行。
8月 『わたしの童話』が新潮文庫より刊行。講演カセットブック『九十歳の人間宣言』を新潮社より刊行。
9月 『橋のない川」第7部が新潮社より刊行。ブックレット『九十歳の人間宣言』が岩波書店より刊行される。
9月 フィリピンでタガログ語訳『橋のない川』が刊行。

1993年 91歳

2月 新潮力セットブック・講演『私はなぜ『橋のない川』を書き続けるのか』を刊行。

1994年 92歳

5月 ブックレット『人間みな平等』を岩波書店より刊行。
7月 古田武彦ほか共著『天皇陵の真相-永遠の時間のなかで-』を三一書房より刊行。
8月 『橋のない川』第7部新潮文庫版刊行。

1995年 93歳

1月 聞き手・増田れい子『わが生涯-生きて愛して闘って』を岩波書店より刊行。
2月 小学館ライブラリー版『女たちの八月十五日-もうひとつの太平洋戦争-』に「愛する故に戦わず」を再録。
4月 『住井すゑと永六輔の人間宣言-死があればこそ生が輝く-』を光文社より刊行。
5月 増田れい子が『住井すゑペンの生涯』を労働旬報社より刊行。
11月 若月俊一との対談集『いのちを耕す』を労働旬報社より刊行。

1996年 94歳

11月 雑誌「家の光」12月号 特別インタビュー「いのちを見つめて生きる」で女性の権利と自立について語る。

1997年 95歳

1月 急に足腰が立たなくなり、牛久市内の愛和病院に入院。
1月 『住井すゑ対話集』全3巻が労働旬報社から刊行はじまる。
4月 『いのちに始まる』を大和書房より刊行。
6月16日 住井すゑ、自宅にて逝去。「橋のない川」第8部は表題だけ残して未完となる
7月6日 「住井すゑさんと未来を語る会」が茨城県稲敷郡茎崎町の圏民センターで開かれた。
12月 共著『上手な老い方』が小学館より刊行。

1998年 生誕96年(没後1年)

1月 増田れい子が『母 住井すゑ』を海竜社より刊行。
6月 住井すゑを偲ぶ会、第1回「野ばらの日」が開催。
11月 新潮社刊『住井すゑ作品集』全8巻の刊行が始まる。翌1999年8月に完結。
11月 『わたしの少年少女物語』の中国語訳『和大地在一起』が吉林大学出版社から刊行。

1999年 生誕97年(没後2年)

2月 『住井すゑジュニア文学館』全6巻が汐文社から刊行。
3月 福田雅子との対談『「橋のない川」を読む』を解放出版社より刊行。
5月 犬田章が『母・住井すゑの横顔』を大和書房より刊行。
6月 住井すゑを偲ぶ会、第2回「野ばらの日」が開催。
7月 『夜あけ朝あけ』の中国語訳『黎明』が『住井末儿童文学作品洗』の1冊として刊行。

2000年 生誕98年(没後3年)

2月 人生のエッセイ5『住井すゑ-生きるとは創造すること-』が日本図書センターから刊行。
6月 住井すゑを偲ぶ会、第3回『野ばらの日』が開催。

2001年 生誕99年(没後4年)

6月 住井すゑを偲ぶ会、第4回「野ばらの日」が開催。

住井すゑの生誕100年を記念する行事開催のため「住井すゑの100年」実行委員会が結成される。

2002年 生誕100年(没後5年)

6月16日 牛久市民センター大ホールにて「住井すゑの100年~第5回野ばらの日~」開催、全国から1200名の住井ファンが集まる。
10月26日 日比谷公会堂にて、鈴木エンタープライスが予てから製作中だった「住井すゑ百歳の人間宣言」が完成し、特別試写会として公開。1600名の観客で埋まる。その後、全国で自主上映会が開催されている。

2003年 生誕101年(没後6年)

6月1日 牛久エスカードホール及び抱樸舎にて、第6回野ばらの日~「住井すゑ百歳の人間宣言」上映会を開催。両会場合わせて、350人のファンが集まる。

2004年 生誕102年(没後7年)

6月13日 抱樸舎にて、第7回「野ばらの日」を開催。同時にブロンズ胸像の制作発表を行なう。