ライフワーク『橋のない川』

『橋のない川』について

 住井すゑがライフワークとして、『橋のない川』を書き始めたのは、夫の犬田卯を失い、その遺品の万年筆を握った時からである。その時のことを次のように述べている。「夫の魂は私に移った。これからは二人分・・・」と抽象的に。つまり、『橋のない川』は犬田卯と住井すゑ2人の共同作業によって書き始めたのだと。彼女は夫の死という悲しみを飛躍のエネルギーに変えていったのである。

 遡ると、彼女が6歳の頃、奈良県の故郷で行われた、天覧による陸軍大演習の時、「天皇さんかて糞をするんだ」と知り、人間はみな同じで平等と気がついた。さらに9歳の時、幸徳秋水らの大逆事件のことを知らされて深い悲しみを負う。「わたしが小学校3年のときです。あの事件は1910年、明治43年でしたね。 幸徳秋水、名は伝次郎という極悪人の一味が天皇に対して謀叛を起こしたと、学校の朝礼で校長が話したわけですが、なぜ極悪人かというと、幸徳秋水は国の富を国民に平等に分配しようといったから・・・というくだりで、わたしはびっくりしてね。そんなすばらしい人がこの世にいたのかと。この世の富をみんなに平等に分配する、それをわたしは子ども心に願っていたのです。それを実行しようとした幸徳は神様みたいな男だととっさに思ったですね。」と、『わが生涯-生きて愛して闘って』で二女れい子に語っている。この大逆事件は反逆に加わった24名のうち12名が処刑され、のこり12名は無期懲役となるのだが、その理不尽さ不条理がやがて住井の反差別の結晶となり、彼女の人間的な感性と、夫である犬田卯の思想・哲学が受け継がれ、それが『橋のない川』の文学の原点になったと言えよう。
 
 物語は、奈良盆地の農村を背景に、日露戦争で父を失った主人公の誠太郎、孝二の幼い兄弟が貧しくとも、母と祖母の温かい手に守られて、素直に成長するのであるが、小森という被差別部落に生まれたため、いわれのない差別を受け、エタと呼ばれ、醜い卑しいものの如くみなされたのである。2人は成長するに従って、自分たち部落を包む不安な環境、それは差別が親から子へ、子から孫へと引き継がれ、のがれようのない苦しみを負い続けることであり、その不条理を打破するため差別との闘いを敢然と始めるのである。彼らの闘いは平等と人権のためであり、やがて全国に広がり水平社結成にかかわっていく。

 住井すゑは『橋のない川」』について「私の作品は、差別をなくし、部落解放をするために書いたものです」と自ら言う通り、あくまでも差別に反対し、人間の命や平和の尊さを訴えつづけたもので、それはライフワークにふさわしい大仕事となった。1~7部合わせて800万部以上読まれたロングセラーである。
 
  第1部は「部落」誌に発表され、61年に新潮社より刊行された。以後、書きついで、73年刊行の第6部まで、5000枚におよぶ大作となる。第6部で一応の完成をみていたが、昭和天皇の死去をきっかけにふたたび筆をとって第7部を執筆(1992刊)、95歳の死の間際まで第8部の執筆を課題としていた。
 住井すゑは第7部発表のあと講演会「九十歳の人間宣言」を開き、8500人のファンの前で 「願わくは、あと10年、生きさせてもらって、第8部を書きたい」と語っていたが、残念ながらその願いは叶わなかった。自宅書斎に積まれた原稿用紙に目を通すと「橋のない川 第八部」と1行だけ 書かれ、あとは白紙のままであった。
 
 増田れい子著書の『母 住井すゑ』によると、住井すゑが網走行きを希望していたことが書かれている。
 取材の旅と講演の旅以外には、いっさい出歩くことをしなかった住井すゑが、網走で流氷鳴りを聞きたかったのはなぜか。
 理由は『橋のない川』の第7部の終末にある。作中で、熊夫が孝二に網走刑務所に収監されている父、熊次郎を訪ねて網走に行くことを希望する。孝二は「わし、熊ちゃんといっしょに、網走に行て来るワ。」と、答えるが、あらためて溜め息をついた。それは作中の孝二にとっても、作者の住井すゑにとっても、あらゆる意味で網走行きは、重い仕事だった。
 住井すゑが、流氷鳴りを聞こうと望んだのは、ただ一点、作品の完成に向かっての願いだったのであるが、95歳で生涯を閉じ、第8部も、網走の旅も、流氷鳴りを聞くことも幻になったのだ。

机に積まれた資料
その時代の時刻表と、網走刑務所に関する本は
第8部の構想が着々と進んでいたことを物語いる
橋のない川(第八部)と書かれ後は空白の原稿用紙

『橋のない川』という題名について

「おふで。」   
少年によばれて、少女ははっと気がついた。
ふではもう少女ではなかった。呼んだ少年は、夫の進吉だった。
しばらく、いや、もう何年ごし遇わずにしまった夫の進吉。その進吉が、今、小溝の向う側に立っている……。ふでは小溝をとびこえるべく身構えた。とたんに、小溝は滔々たる大河となって彼女をさえぎった。
進吉は対岸を上流に向いて駈け出す。
ふでも上流に向いて走りつづける。
「ああどこかに橋があるはずや。」
  これは、『橋のない川』の冒頭の一節で、主人公孝二の母親ふでが見た夢のシーンであるが、物語の一貫したテーマである差別、つまり差別する側と差別される側に橋が架かってないことへの苛立ちや腹立たしさを暗示したものである。

 住井すゑは小説の題名について次のように語っている「アメリカとシベリアを隔てる海峡・ベーリング海峡が、もし、陸続きだったらどうなっていたかを最初に考えたからだ」。つまりベーリング海峡が陸続きだったら、アメリカ大陸もシベリア大陸もなく地球は一つ、世界は一つであり敵対関係は生まれなかった。海峡があるから人は容易に渡れなく、人間関係のいざこざが起きるのである。それは普通に架かる橋でも同じことで、差別と被差別の人間関係の架け橋と置き換えることもできる。