歴史で観る牛久沼/近・現代編

概 略

明治維新の廃藩置県によって、牛久沼を囲む県の構成は次のようになった。龍崎県(龍ヶ崎市)、牛久県(牛久市)、若森県(伊奈町、つくば市の一部)、葛飾県(藤代町)。

そして、明治4年の廃合により、龍崎県、牛久県、若森県は新治県に統合され、葛飾県は印旛県に統合。

更に明治8年には、新治郡は茨城県に統合。葛飾県は利根川以西が千葉県に、利根川以東が茨城県に分割統合となり、現在の都道府県が確定した。牛久沼周辺は総て茨城県に属することになった。

明治5年、水戸街道は陸前浜街道と改称され、その後牛久沼東岸沿いに新道(現在の国道6号線とほぼ合致)が開通。このことにより迂回路にあたる若柴は宿駅の機能を失う。

明治10年津田農場を主体とした女化原の開拓事業開始される。

明治17年明治天皇、女化原で行なわれた近衛砲兵実弾演習を天覧。このため牛久沼畔の陸前浜街道は臨幸道として改修された。

明治29年土浦経由水戸~東京間鉄道全通し、同時に牛久駅、藤代駅ができる。同年平安時代より続いた信太郡、河内郡は廃止となり稲敷郡となる。

明治32(1899)年、龍ヶ崎鉄道株式会社が設立され、翌年龍ヶ崎~佐貫間が開通し、それと同時に常磐線佐貫駅が開業する。

明治36年初代神谷伝兵衛、日本初のワイナリー牛久シャトー(シャトーカミヤ)を建築。 大正時代、周辺の町には電灯がともり、ガスがひかれ、道路の舗装工事が始まり、まさに大正ロマンの時代。反面、民主主義運動と絡み合って農民運動が盛んになり、地主対小作人の争いが絶えない時代でもあった。

昭和10年、住井すゑ、夫(犬田卯)の郷里牛久に移住。城中の牛久沼畔にて文学活動を始める。

昭和13年 日本画の小川芋銭逝去。その後アトリエは小川芋銭記念館「雲魚亭」となる。

昭和16(1941)年太平洋戦争勃発。国民総力を挙げての食糧増産と軍需生産体制に入り、当地に於いても軍需工場が建設され、戦車砲弾等の製造に従事した。

昭和29(1954)年3月、龍ヶ崎町・大宮村・八原村・長戸村・馴柴村・北文間村に北相馬郡川原代村を加え、8町村の合併による龍ヶ崎市が誕生。

昭和38年(1963)、筑波研究学園都市の建設が決定し、その建設の範囲は筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村、茎崎村に及んでいる。

昭和42年に日本住宅公団によって竜ヶ崎ニュータウンの建設が決定。昭和57年分譲開始。

昭和60年、科学万博つくば'85開幕。翌61年久市が誕生。

昭和62年(1987)大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併してつくば市が誕生。

平成9年(1997)住井すゑ逝去。

平成14年、稲敷郡茎崎町はつくば市に吸収合併する。

平成18年、俗にいう平成の大合併によって、藤代町(北相馬郡)は取手市に吸収合併。伊奈町(筑波郡)は谷和原村(筑波郡)と合併しつくばみらい市となる。これにより牛久沼周辺の自治体は龍ケ崎市、牛久市、つくば市、取手市、つくばみらい市の5市となる。

明治天皇女化行幸

牛久市街地の中心より少し外れて上町があり、昔の宿場の面影を残す古い町並みが続いている。旧街道を牛久沼方面へ向かうと途中右手に門構えの旧家があり、正門の脇に石塔が立っていて、「明治天皇行在所」と掘ってある。

これは明治17年の明治天皇女化原行幸の際の宿所を記念した碑で、牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。天皇行幸は当時としては一大センセーショナルな出来事で、そのために牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の新道(現国道6号線)の施設など、明治天皇の権力の大きさが伺える。

背 景

明治15年1月『軍人勅諭』によって、陸、海軍の軍隊は天皇直属のものと規定され、明治天皇の権力が絶対的なものとなった。余談であるが、この『軍人勅諭』は太平洋戦争敗北まで続き、旧軍人の精神教育の基本とされ、日本を泥沼の戦争に引き立てた諸悪の根源となった。

当時の日本は西洋諸国に負けじと富国強兵が叫ばれ、軍隊の編成をプロシア(ドイツ)に見習い近代化が勧められていた。

そのような状況の中で、明治17年11月27日から12月10日の14日間、女化原に於て近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が行われた。明治天皇の女化行幸は、この演習の叡覧のためある。

当時の女化原は、既に津田農場による入植・開拓が始まっていたとは言え、大部分は荒地で広大な原野が続き近衛砲兵大隊の演習に最適の場所と思われた。また、東京から60kmと比較的近いので演習の場所に選ばれたのだろう。

近衛砲兵大隊、大砲赦射的演習

近衛砲兵大隊は約1000名規模の大演習で、日程は前記の通りで、クルップ式七珊知半鋼製野砲八門で大隊を編成し、動的射撃演習と旧式砲、臼砲との比較射撃の演習が行われ、その最終段階が天覧射的演習となった。

津田農場入植者の話によると、「家屋がちょうど着弾点にあたるため、一時避難した。クルップ製野砲の打ち出す砲弾の炸裂する音はすさまじく、家屋は砲弾の破片で損害を受け、射撃は夜間まで続けられ、みんな肝を冷やした」と記録されている。

このように、演習は如何にも凄まじく、実戦的であった事が伺える。

明治天皇の女化原行幸

記録によると12月6日午前8時5分、東京を出発、随行者は、侍従長公爵徳大寺實則、貞愛親王、能久親王、参議伯爵山田顯義(司法卿)、宮内大輔伯爵、吉井友實、彰仁親王近衛都督、その他内閣大書記官や近衛士官等大勢であった。一行は千住より陸前浜街道を北上し、松戸で千葉県令の奉迎を受け、我孫子で1泊し、翌7日利根川を船で渡り茨城県令の奉迎を受ける。そして午前11時55分に牛久行在所に到着となっている。

12月8日は曇りで寒さが著しく、天皇は前日より腸の病に罹り、予定の時刻を変更し、午後12時30分行在所を出発、約30分程(推測)で女化原に到着。そして稲荷神社宮司の家にご休憩後、射撃演習場に到着、近衛將校等一同に謁を賜された。引き続き、体調思わしくなく馬車の上よりの天覧となった。夜間演習も天覧の予定であったがそれを貞愛親王及び能久親王に命じて代行となった。

『明治天皇紀』によると、「女化原は牛久村の東方里餘の地にあり、周圍藪里茫々たる瘠薄の草野なり、---」「牛久村より此處に至る里餘、一細道を通ずるに過ぎず。馬車を驅る能はず、村民之を憾み、草莽を闢きて坦道を作り、車行に便せんとす、傍近の老若皆臻りて工を助く、二日にして成る、今の臨幸道と稱するも是れなり」と記録されている。これにより、当時の女化原が一面藪に覆われた寂しいところであった事が伺える。また天皇のために臨幸道が村民を動員して改修された事が記されている。

明治天皇牛久行在所(牛久市上町)

明治天皇駐蹕之地(牛久市女化)

女化原開拓史

明治政府は殖産興業を政策の柱とし、明治8年、御雇外人のデダフルシュ・アップ・ジョンスは、内務卿大久保利通に、常陸、下総、上野の荒蕪地調査の上申書を提出し、荒蕪地の開拓営農の方法を提言した。

この提案に基づいて、和歌山県士族津田出は千葉、茨城両県にわたる官有荒蕪地18ヶ所、3000町歩に及ぶ、日本で最初にして最大の洋式大農法経営に取り組んだ。 彼は藩政改革の実績を買われて明治政府に迎えられながら失脚し、その後この壮大な試みに挑戦したのである。

この津田農場の中で最大規模の700町歩を有する第七農場(明治11年開始)が女化原であった。しかしこの経営は間もなく不振に陥り、明治24年頃から津田は農場を次々と手放し、大農場は小作農地へと変っていった。このころ入植した徳島、香川の農民がその後の女化開拓の中心になっていった。

女化への移住

明治22年は天候不順で米の生産は全国的に不作であった。それに伴い翌年の23年は米が高騰し明治始まって以来の恐慌を巻き起こした。人々の生活は貧窮のどん底に陥り、全国で米騒動が起きた。そんな中で四国山脈の徳島県、香川県の山間の各村は特に耕地が狭く、他県への移住が頻繁に行われていた。移住者達は、多くは北海道であったが、ちょうどその頃、津田出による千葉県、茨城県の大農場への移住の募集が行われていた。彼らにとって、北海道への移住は想像を絶する厳しさで、それよりも東京に近い千葉、茨城の大農場は暖かい理想郷のように思えたはずだ。何故なら津田出の大農場の募集広告は移住希望者にとって願ってもない好条件が並んでいた。以下の通りである。

大農地故地子(土地の使用料)は安い。

地味宜しき収穫多い。

水利は利根川などその他川が多く豊富

東京に近くわずか2時間である。

古くから水害の無いところである。

しかし、彼らが目にした女化原は募集要綱から想像していた理想郷とはかけ離れていて、見渡す限りの萱、ぶな、萩が密生した荒れ果てた広野であった。

開 拓

現実の女化原は関東ロームによる酸性土に覆われていて、耕しても耕しても稔らぬ大地であった。そんな中で移住農民たちは粗末な掘っ立て小屋に住み、途方に暮れながらも、いずれ花開く大地と信じ開墾に精魂傾けた。

関東ロームの中から、僅かに残る「まつち」(黒い土)を探し求め耕作地としたが、しかし20年ぐらいは満足な収穫はなかった。冬は筑波颪の冷たい風と霜に農作物はやられ、夏は日照りでと水害で麦が取れない。開拓者たちは飢えを凌ぐため、近場の農家や常磐線の鉄道工事に日銭稼ぎに出かけた。また津田農場の経営の失敗は更に彼らを不安に陥れた。その結果、開拓者たちは大農場の雇用者から小作農民へと立場を変えることになる。そのために僅かな稼ぎの中から金を出して手にした土地、それはまさに、汗と涙の結晶であった。

やがて開墾の努力もあって耕作地は大幅に広がり、麦の他に作れるものは何でも作った。陸稲、サトイモ、ひえ、粟、大豆、とうもろこし、甘諸、たばこ、などなどである。更に明治40年になると、加燐酸灰肥料が普及し、生産額は急激に増加した。

尚、津田農場崩壊の裏側で、神谷伝兵衛という洋酒醸造の先駆者が、その農場の一部を買い取り、ぶどう園とし、更に牛久駅の程近くに醸造施設「牛久シャトー」を完成させ、女化開拓の新たな一面を切り開いた事を、付け加えておこう。

女化分教場

女化原開墾の中心的役割を果たした人物に杉本民蔵というクリスチャンが居た。彼は徳島県からの移住者で、村づくりの柱として教育、宗教の重要性を強調した。彼の呼びかけによって明治24年に、教会を兼ねた化成学館という私立の小学校が開校した。しかし、宗教色が強く開拓者仲間からの反発もあり2年で廃校となった。だがしかし、民蔵の教育に対する熱意は失せる事なく寄付を募り、明治31年新たな小学校、私立女化尋常小学校が化成学館の隣敷地に開校した。その後学校関係者は村当局と度々折衝を重ね、岡田村立尋常小学校となる。移住者にとって、幾多の困難の中で出来た小学校は喜び一入で、心のよりどころとなり、学校教育だけでなく、移住者の集会所として使われ、相互の絆を深めていった。その後校名は村立岡田小学校女化分教場となり、昭和47まで存続し、現在は牛久青年研修所として使用されている。

今もなお、女化分教場は開拓のシンボルとして、女化原の歴史を刻んでいる。

女化分教場(牛久市女化)平成10年撮影

市の文化財だった銀杏の木は現在は有りません

豊かな女化原

女化原は幾多の困難を乗り越えて、稔り多い大地となった。大正時代には桑苗、桐苗、落花生が盛んに作られるようになり、昭和になると、野菜、にんじん大根、牛蒡や西瓜、果樹栽培もおこなわれた。女化の落花生は特に有名で郷土の特産物になっている。また、蓑の原料である「ササメ」と刷毛の原料の「カルカヤ」の生産地でもある。

近年に入り都市化が進み、かつて移住者達が開拓した土地は新興住宅が建ち並らび、新たな移住者達の生活の場となっている。街道筋は車の往来が激しく、道の両脇にはパチンコ店や飲食店が並んでいる。点在する落花生畑は開拓当時の面影を偲ばせているが、苦渋に満ちた開拓の歴史は忘れられようとしている。

関鉄竜ヶ崎線の歴史

JR佐貫駅から竜ヶ崎の中心を結ぶ4.5kmの短いジーゼルカー路線。開業は1900年(明治33)で、100周年を迎えた県内最古の私鉄路線です。

最初は藤代-竜ヶ崎を結ぶ「馬車鉄道」の計画であったが、輸送力を考慮し龍崎鉄道を設立し蒸気軽便鉄道に変更、更に小貝川への橋梁建築の経費を軽減するために常磐線との接続駅を佐貫へと変更し、佐貫駅もこれに合わせて開業した。

1944年(昭和19年)には、戦時の輸送機関の統合により、鹿島参宮鉄道(現在の鹿島鉄道)に鉄道事業が移譲されたが、その後1965年(昭和40年)常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となり、現在のジーゼルカーに至っている。1971年(昭和46)には全国で初めてワンマンカーを実施、乗客の動きに目が届くよう運転席がホーム側に設置されているのも特徴だ。

設立当初、1901(明治34年)の申請によると、佐貫~竜ヶ崎間の既設路線から途中で分岐し、竜ヶ崎の中心部を通って柴崎村伊佐津(新利根町)に至る路線延長計画があった。

稲敷郡東部は当時、県内有数の米雑穀・繭の生産地だったが、水運では東京まで運ぶのにかなりの日数を要した。鉄道が通れば運送時間を短縮できるから、多くの需要が見込めた。 しかし、竜ヶ崎地方は翌年8月に大洪水に見舞われ、その2年後に日露戦争が勃発。資金調達が難航し、この計画は水泡と化した。

若柴町を走る竜ヶ崎線ジーゼルカー

国道六号線

江戸時代より水戸街道と呼ばれていた街道は、明治5年に陸前浜街道と改称された。その後牛久沼東岸沿いに新道が開通し、明治17年、明治天皇の牛久行幸の際に臨幸道として整備され、おのずと陸前浜街道の本道はこちらに移った。さらに、明治18年に内務省の告示によって、国道1号から44号の路線が決定し、これに基づき陸前浜街道は国道14号線の称号が与えられた。この時の制定は今の国道と違って、総てが日本橋を基点としていた。国道14号線は日本橋から水戸を結ぶ路線で、江戸時代後期の水戸街道とほぼ同じであったが、宿駅名の中に若柴の名前は消えていた。

現在の水戸街道が国道六号線と名づけられたのは、大正9年に制定された、大正国道と言われるものが最初で、国道六号路線の称号が与えられた。それによると六号路線は東京市より宮城県庁所在地つまり仙台市迄で、経過地は四号路線を千住町にて分岐し水戸市を経過し宮城県名取郡岩沼町より四号路線に合流することになっていた。その後、昭和27年の制定により現在の国道六号線の大もとが作られた。国道六号線。それは東京を中心として、国土の骨格をかたちづくるように順番に番号が振られたのである。つまりこの道は戦後の経済復興を担う国道として重要な位置づけであったことが想像出来る。そしてそれは大正国道六号路線を継承するかたちを採り、また六と言う同じ番号が付けられたのは、東京を起点としている数少ない幹線だからこそ、その必然性があったのだろう。 

街道は時代とともにその役割が変わりかたちも変わってゆく。人々は旧街道を陸前浜街道と呼び続けた。そして新道つまり国道六号線をいつの時か再び水戸街道と呼ぶようになった。かつては若柴を迂回していた水戸街道は牛久沼辺の道に変わり、沼辺の国道はその役割を数年後にはバイパスに譲るのであろう。

国道六号線、銅像山踏切付近

JR常磐線

上野を起点としているが正確には、日暮里から土浦・水戸・いわきなどを経て仙台市南方の岩沼に至る。全長343.1キロメートルの路線。

明治31年8月に上野~岩沼間で全線開通し、磐城線、水戸線、土浦線、隅田川線を合わせ、総称海岸線と呼ばれ、福島県、茨城県、千葉県の海岸線を主に走っていた。

明治42年8月10月に海岸線は、常陸の「常」と磐城の「磐」をとった常磐線に名称を変更。「常磐」は"ときわ"とも読み、ときわ路の語源になっている。

常磐線は上野~取手間の動力は直流電力で、それ以北は交流となっている。そのため取手・藤代間で電流の切り替えが行われ、その間約30秒ほど車内が真っ暗になる事もある。普通電車及び特急は交流・直流の両方に対応しているが、常磐快速は直流のみの対応で、そのため全部取手止まりとなっている。尚、普通電車の他に千代田線直通の各駅停車もあり、初めて常磐線に乗車される方は迷われるであろう。尚、各駅停車も直流対応のため、取手及び我孫子(取手の2駅上野寄り)止まりである。

バブル期以後、取手以北は都市化が進み乗客も増えたが、佐貫・牛久・土浦方面の電車の運行本数は1時間に4本と少なく、旧態依然のダイヤ構成が続いている。それは物理的な交流・直流の問題も含め、依然改善の見通しは立っていない。

常磐線

若柴町富士ノ下踏み切り

竜ヶ崎ニュータウン

二つに分断された竜ヶ崎ニュータウンの西側を北竜台と言う。長山、松葉、小柴、平台、中根台、久保台地区で構成されていて、もともとは若柴町及び馴馬地区の山林や農地であった。牛久沼を見下ろす稲敷台地の南端に位置し、豊かな自然環境を残しつつ都市開発は行われている。

分譲が始まって以来22年が経った現在(平成16年)、コミュニティーは充実し、成熟した街並みが完成しつつある。さらに平成11年には大型ショッピングセンターサプラが誕生。、平成14年には済生会病院が開院し、都会的な生活環境が整った。

竜ヶ崎ニュータウンは1967年(昭和42年)に日本住宅公団によって建設が決定した住宅地で、当初は1300㌶15万人が住む街にする予定であった。完成すれば全国五指に入る大規模な住宅地となる予定であったが、ところが計画が行政主導で行われたため農民の理解を得られず、反対運動が過熱し用地買収が思うように進まなかった。そこで公団は開発計画を大幅変更、西と東の二つのニュータウンに分断する形を採った。北竜台地区(327㌶)と龍ヶ岡地区(345㌶)でである。それに工業団地つくばの里を加えた計761㌶の開発地区を総称竜ヶ崎ニュータウンと言い、計画人口は合わせて7万人に下方修正された。

何はともあれニュータウンは1982年に分譲が始まって以来高い人気を推移してきた。整然とした街並みに豊富な公園そして周囲を豊かな自然環境に囲まれていることなど人気の秘訣はいくらでも挙げられる。

北竜台2万人、龍ヶ岡5千人、両ニュータウン合わせて2万5千で、まだまだ計画人口の三分の一である。

(平成13年調べ)

佐貫駅東口から竜ケ崎ニュータウンへ続く大通り。 北竜台までは車で5分程と、比較的近い。

小柴地区に新規オープンしたショッピングセンターサプラ、この大型店誕生にによりニュータウンの賑わいも一層拍車がかかる。

白鳥通り、竜ヶ崎ニュータウンの大動脈

松葉地区のモダンな分譲住宅

牛久の近代史

明 治(1867~1912)

明治2年
山口弘達、明治政府より牛久藩知事を命ぜられる。
明治4年
廃藩置県牛久藩は牛久県(県知事山口弘達)となる。更に同年に出された府県制改正により、諸県が整理統合され、まもなく牛久は新治県に属することとなる。
明治8(1875)年
新治県は廃止され、県域を拡大し現在の茨城県となる。
明治10年
女化原野開拓事業開始。
明治17年
明治天皇、女化原で行なわれた近衛砲兵実弾演習を天覧、臨幸道が整備される。
明治22年
町村制実施に際し、従来の諸村が合併し牛久・岡田・奥野村ができる。
明治29年
土浦経由水戸~東京間鉄道全通し、同時に牛久駅ができる。
明治36年
初代神谷伝兵衛、牛久シャトー(現カミヤシャトー)を建築。日本初のワイナリーとなる。

大正(1912~1926)

大正6年
小川芋銭、珊瑚会第3回展に「三人笑」「森羅万象」「盤山肉案」を出品し、日本美院同人となる。

昭和(1926~1989)

昭和13年
小川芋銭逝去。
昭和16(1941)年
太平洋戦争勃発。牛久沼周辺村は大洪水に見舞われなど不遇の時代となる。
昭和20年
終戦
昭和27年
国道6号線全線開通
昭和29年
牛久村が牛久町となる。牛久町と岡田村が合併
翌30年
牛久町と奥野村が合併役場新庁舎完成
昭和31年
県下初の有線放送電話が開通。
昭和36年
常磐線上野~勝田間電化。
昭和49年
新庁舎(現市庁舎)完成
昭和53年
観光協会設立、牛久沼畔で初の花火大会を開催。
昭和56年
第1回カッパ祭り開催以後恒例となる。
昭和59年
三日月橋地区公民館が開館し小川芋銭胸像を設置。
昭和60年
牛久駅東口駅前広場完成 科学万博つくば'85開幕 万博会場茨城パビリオンで「牛久町の日」開催 、この時代、飛躍的に都市化が進み、新興住宅の建設ラッシュが始まる。
昭和61年
市制施行
昭和63年
市民プールオープン

平成(1989~   )

平成9年6月
住井すゑ逝去 翌、平成10年 抱樸舎にて住井すゑを偲ぶ会「野ばらの日」を開催、以後恒例となる。平成16年牛久市民センター大ホールにて「住井すゑの100年~第5回野ばらの日~」開催、全国から1200名の住井ファンが集まる。

竜ヶ崎の近代史

明 治(1867~1912)

明治元(1868)年
明治維新によって仙台藩龍ヶ崎領は龍ヶ崎藩となる。
明治4(1871)年
廃藩置県によって、龍ヶ崎藩は龍ヶ崎県となる。更に同年に出された府県制改正により、諸県が整理統合され、まもなく龍ヶ崎は新治県に属することとなる。
明治8(1875)年
新治県は廃止され、県域を拡大し現在の茨城県となる。
明治22(1888)年
茨城県令により、八代、羽原、別所、貝原塚、泉、薄倉の6ケ村を合わせ八原村。若柴、馴馬、佐貫、稗柄、小通幸谷、南中島、入地、稲荷新田、小柴新田、庄兵衛新田、門倉新田の11ケ村を合わせ馴柴村。大徳、宮渕、佐沼の3ケ村を合わせ大宮村。長峰、半田、塗戸、高作、板橋、大塚の6ケ村をあわせ長戸村。長沖、長沖新田、須藤堀、北方、羽黒、豊田の6ケ村を合わせ北文間村になる。尚、町村制施行により、龍ヶ崎は単独で龍ヶ崎町となる。
明治29(1896)年
平安時代より続いた信太郡、河内郡は廃止となり、龍ヶ崎町、八原村、馴柴村、大宮村、長門村、北文間村は稲敷郡に属することになる。
明治32(1899)年
龍ヶ崎鉄道株式会社が設立され、翌年龍ヶ崎~佐貫間が開通し、それと同時に常磐線佐貫駅が開業する。
明治33(1898)年
小野瀬忠兵衛が発起人となって龍ヶ崎農商銀行が設立する。

大正(1912~1926)

大正2(1913)年
龍ヶ崎町に初めて電燈が灯る。
大正5(1916)年
龍ヶ崎町にガスがひかれる。
大正11(1936)年
龍ヶ崎町横町で舗装工事が始まる。

昭和(1926~1989)

昭和16(1941)年
太平洋戦争勃発。
昭和20年
終戦
昭和29(1954)年3月
龍ヶ崎町・大宮村・八原村・長戸村・馴柴村・北文間村に北相馬郡川原代村を加え、8町村の合併による龍ヶ崎市が誕生。翌年高須村の一部が加わり現在の市域となる。昭和30年代、市庁舎・消防署・ごみ処理場などが作られ、工場誘致に関する条例が制定されるなど都市としての礎が築かれる。
昭和39(1964)年
東京オリンピックで地元出身の柔道の岡野功選手が金メダルに輝く。
昭和40年代
市営グラウンドやし尿処理場など都市基盤の整備が順調に進み、また、流通経済大学が開設するなど、学園都市としても発展をする。
昭和50(1975)年代
竜ヶ崎ニュータウンの建設が本格的に始まる。
昭和60(1985)年
佐貫駅舎が新築され、県道千葉龍ヶ崎線、土浦龍ヶ崎線が開通するなど交通面での整備が進みむ。また、文化会飴・中央図書館、地区公民館・歴史民俗資料館など文化・教育施設も充実する。

平成(1989~   )

平成元(1989)年
つくばの里工業団地が完成し、多くの企業が進出。
平成11(1999)年
ニュータウン北竜台に大型ショッピングセンターサプラが開業。
平成14(2002)年
総合運動公園たつのこアリーナが完成、龍ケ崎済生会病院が開業する等、市民生活の利便性がいっそう高まる。人口7万7000人を擁する住宅都市として発展を続けている。

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