牛久沼の北側、及び西側に広がる高台を稲敷台地といい、その最南端及び牛久沼を見下ろす台地はいたる所に浸食谷が刻まれて複雑な地形をしている。地質は成田層、成田砂礫層を基盤とし、その上に常総粘土層、関東ローム層が堆積している。
紀元前1万年ほど前の先史代からこの台地上に人が住んでいた形跡が残っている。竜ヶ崎ニュータウン建設中に発掘された沖餅遺跡などから窺うことが出来る。
縄文時代の中期、後期頃までは牛久沼付近まで海水が流入し、稲敷台地に入り江がくい込んでいた。人々は狩猟・漁労のほか、製塩を行い、また海上による産物の物々交換が容易であった。この時代の人々にとって入り江を見下ろす稲敷台地は、自然の産物が豊富で住みやすい土地であったと思われる。
龍ヶ崎市立松葉中学校校庭の赤松遺跡が発掘された場所に縄文時代の竪穴住居が復元されているので興味深い。
縄文時代後期、弥生時代になると海水は徐々に後退し、平野部では稲作が行なわれるようになる。生産用具に鉄器が用いられたのはこのころで、飛躍的に生産が向上した。さらに生産を向上させるために組織的に農作業を行なうようになる。古墳時代(大和時代とも言う)になると社会的地位の区分、支配階級と被支配階級がはっきりするようになり、やがて強力な権力者が現れ部族国家が誕生する。農民は農具だけではなく武器をも持たなければならなくなった。
ちなみに、牛久沼の成立は、縄文時代の後期、海水が徐々に後退する過程において、下流の低湿地からの逆流が活発化し、土砂が堆積してせき止めれ、湖沼化したと言われている。そのころは海水であったが湖水も、弥生時代には完全に淡水となったようである。ただし、この沼が牛久沼と呼ばれるようになるのは、江戸時代になってからである。
さて、
各々の部族国家は、領土拡大のために近隣部族と争いを繰り広げていたが、幾多の年月を経て、5世紀頃には大和朝廷という統一国家に組みすることになる。しかし、大和朝廷の威光は東国まで届かず、この地方の豪族たちは半ば独立した形態をとっていた。その豪族の陵墓、蛇喰(じゃばみ)古墳からその一端が窺える。
7世紀、飛鳥時代になると、法律が整備され基本的な国造りがはじまる。大化改新後は大宝律令という律令制度が整い中央集権化が進んだ。そして全国を国・郡・里に分け、それぞれに国司・郡司・里長をおき、国司は中央の官僚を任命し派遣し、郡司にはその土地の有力者が任務に当たった。当然の事ながら、東国の牛久沼地方も律令の元に中央集権的な統治が行なわれた事は言うまでもない。
その頃迄は足柄の坂より、東国はすべて我姫(あずま)の国と言われていて、常陸国と言う国名はなかった。それぞれ唯新治、筑波、茨城(うばらぎ)、那加、久慈、多珂の国と呼ばれていた。牛久沼周辺はその中の茨城の国に属していた。律令制により、常陸国が設置されると、牛久沼は常陸国河内郡に属すことになる。ただし東方は女化あたりから常陸国信太郡に属し、沼南端の地は下総国相馬郡に属していた。このように牛久沼は古代から複数の行政組織に囲まれて独自の風土を築きながら現在に至っている。
飛鳥時代に始まった律令制度は形を変えながら、奈良時代、平安時代と続く。その間、国司に任じられた官僚は貴族化し、私利私益だけをむさぼり続け、政治を疎かにしするようになった。当然の事ながら地方政治は乱れ、人々の生活は疲弊し治安も悪化していった。そのため郡司などの地方豪族は同族を中心とした武士団を結成し土地や農民を力で支配するようになる。また中央で思うように官職に就けなかった下級貴族が東国に下り地元の豪族と糾合し、武士団を結成する場合もあった。特に東国は中央政府の干渉を受けにくく、武士団の台頭は著しく、常陸国を中心に繰り広げられた平将門の乱は、このような背景の元に起きたのである。当然ながら牛久沼周辺もこの乱の戦場と化した。
平将門の乱はやがて収拾されるのであるが、この乱が一つのきっかけとなり、朝廷の威信は失墜し、やがて武士中心の政治が行なわれるようになる。
『古今類聚常陸国誌』は「牛久湖 国訓宇之苦乃宇美、在河内郡牛久村南、故名、源出蚕養川」と述べ、『常陸誌料郡 郷考』は、「牛久沼 文禄地図には太田沼と注せり(中略)、今ハ沼の東辺牛久若柴等官道なれは往還の行旅牛久の方より此沼を下瞰するを以て牛久の名を負ひしと見えたり」と述べ、柏安之の『常陸国名勝図志』は、「牛久湖 牛久村にあり、(中略)源は蚕水に出つ」と述べ、『大日本地名辞書』は、「牛久沼 牛久、佐貫の西方なる湖沢にして、筑波郡の野水之に注入し、南に逃路ありて、(中略)以て小貝川へ通ず。(中略)往時に在りては、汎濫最広く、後世と頗異なりしを想ふべし」と述べている。
(以上龍ヶ崎市史・原始古代編、引用)
古くは大田沼、あるいはその沿岸の地名を採って佐貫浦、足高浦、小茎浦、牛久浦、などと呼ばれていたが、いつの時代か牛久沼と呼ばれるようになった。その語源は前途の引用文によると次のように考えられる。
参考文献、龍ヶ崎市史
龍ヶ崎市は市北部を中心に昭和43年から始まったニュータウン計画により多くの山林、田畑が住宅地へと変わっていった。竜ヶ崎ニュータウンは計画人口8万人(当初の計画)、年々賑わい増し、自然と調和した素晴らしい街並みが造成されている。その過程において太古の昔からの住居跡が次々と発掘された。その住居跡は旧石器時代から古墳時代の遺跡で、既に学術調査は終了し、ほとんどの遺跡は既に湮滅している。もう私たちの目に届くことはない。
竜ヶ崎ニュータウンは稲敷台地の南端に位置し洪積世に形成された標高20~27mの高台で、地質は成田層、成田砂礫層を基盤とし、その上に常総粘土層、関東ローム層が堆積している。
このページではニュータウン開発事業で発掘された代表的な遺跡を紹介する。
沖餅遺跡より発掘の剥片4点
小柴一丁目 沖餅遺跡付近
竜ヶ崎ニュータウンの中でも、小柴一丁目は、10年一昔までは閑散としたところだったが、近年、サプラ、Ks電気など大型店舗の出店が目白押しで、市内一番の商業地区に変貌した。
竜ヶ崎の中で、一番新しい街と言われている北竜台の小柴一丁目は、実は最も古くから人が生活し、文化を築いていたところだった。これも何かの因縁なのか。ここから旧石器時代末期の石器及び縄文時代、古墳時代の竪穴住居跡が発掘された。
旧地名の若柴町字沖餅から若柴沖餅遺跡と言われている。
縄文時代(紀元前8千年?~紀元前3百年)の竪穴住居、遺物を主とした遺跡。
縄文時代は地球の温暖化が進み、氷河期は終焉した。このことに依って海面は上昇し海抜0~4mの平野部は入海となった。これを縄文海進という。竜ヶ崎の場合、現在の平野部水田地帯、及び旧市街地は入海でニュータウンなどの高台は海岸沿いの陸地であった。縄文人達にとってこの稲敷台地は、海の幸や木の実が手に入れやすく、気候温和な住み易い土地であったことが想像できる。
この遺跡は、沖餅遺跡から至近距離に存在しているので、このあたりは、古くから広範囲に集落が点在していたのであろう。現在の地名は松葉二丁目であるが旧地名から若柴赤松遺跡と言われている。
*以上は縄文時代のもので、その他古墳時代のもの多数出土している。
赤松遺跡は龍ヶ崎市立松葉小学校付近にあたる。たまたま出土した場所が小学校建設予定地付近であったということはこの遺跡にとって、幸運であった。その後、生徒たち主導のもとに竪穴式住居は復元され、今では赤松遺跡の証となっている。
赤松遺跡全景/平成8年撮影
復元された竪穴住居(松葉小学校校庭内)
平成11年撮影、現在は新しい物に復元
埴輪イミテーション(松葉小学校校庭内)
赤松遺構分布図
赤松遺跡竪穴住居跡
縄文土器、廻り地A遺跡出土
廻り地A遺跡
中根台二丁目、四丁目付近
現在の中根台四丁目
龍ヶ崎市内の中では数少ない弥生時代(紀元前3百年~紀元3百年)の遺跡。
縄文時代は海進現象で平野部が非常に狭まった時代であったが、その後地球の気候が僅かさがり、それに伴う海退現象によって沖積平野が形成され、今日のものと同じ地形が成立した。さらに渡来人によって稲作が伝授され急速に人口が増えた。それが弥生時代である。
龍ヶ崎市全般において、これまで確認調査された遺跡は屋代A・B遺跡、外八代遺跡、南三島遺跡、尾坪台遺跡、長峰遺跡と全部で10ヶ所ほどで、いずれの遺跡の集落構成期も弥生時代中期から後期である。
竪穴住居50軒
竪穴住居跡の規模は、5m前後のものが大半であり、最大のものは10.4.m×8.27mである。竪穴住居跡の内部構造のうち炉は地床炉であり、住居跡の中央部ないし西寄りに位置している。
壺形土器、甕形土器
その他古墳時代から近世にかけての土器多数出土
屋代B遺跡
弥生土器イメージ
万葉の時代から歌枕として度々登場する筑波山、筑波嶺。その筑波山から南方に関東平野が広がり、さらに遠く霞ヶ浦を見渡すことが出来る。その場所にはつくば市があり、奈良・平安時代は常陸國河内郡の郡衛として栄え、現在でも筑波稲敷台地の中心地である。またつくば市は学園都市として有名であり更には科学技術の中心として日本国内はもとより世界の注目を集めている。
中原遺跡は河内郡衛のあったところと程近く、その役割として、「常陸風土記」で欠落している河内郡の様相を知る上で重要な手がかりとして注目が集まっている。
中原遺跡は筑波学園都市中心部より僅か東に2キロほどで、花室川左岸の低地を望む台地上、標高24~25mに位置している。現在の住所でつくば市村岡で、南西側から北東側には、谷津が細長く入り込んでおり、現状は畑地及び山林となっている。
当遺跡は奈良・平安時代を中心とする、旧石器時代から江戸期までの複合遺跡で、総面積58000㎡の場所から、既に500軒を越す竪穴住居と、140棟もの掘立柱建物跡が発掘されている。また遺物も数多く出土し、中でも青磁、白磁は大変珍しく、律令期における中央との繋がりを示唆する重要な代物である。
当遺跡の調査は中根・金田地区特定地区整理事業に伴う発掘調査で、平成9年度から茨城県教育財団によって行われ、今回で3度目となる。
発掘作業中の中原遺跡全景
竪穴住居跡 | 505軒(内2軒縄文、5軒古墳時代) |
掘建柱建物後跡 | 140棟 |
土坑 | 2735基 |
地下式壙 | 1基 |
堀・溝 | 97条 |
旧石器集中地点 | 8ヶ所 |
ピット群 | 1基 |
この遺跡から一万年前の遺物と思われる、掻器、削器、ナイフや石の破片が出土している。
河内郡菅田郷は奈良・平安時代に大きな集落が形成されるが、有史以前の太古の昔から人の営みがあったことが証明できるであろう。
ナイフ型石器
削器
掻器
石片
当遺跡の竪穴住居は大部分が平安時代のものであるが、2軒だけ縄文時代の竪穴住居が発掘された。
おそらく、旧石器時代に移り住んだ人達の子孫がそのまま縄文時代も居つづけたのであろう。
竪穴住居
右上の窪みは土坑で、貯蔵庫と考えられる
縄文土器
当遺跡では古墳時代の遺構は5軒しか出土していない。
奈良・平安時代には河内郡の郡衛関連の集落として花開くのであるが、古墳時代は中央の手が届かな寒村であったことが想像出来る。
竪穴住居
この竪穴から遺物は出土していないため、時代を特定する事が出来ないが、中央上部のカマドは、箱型が飛び出していて、古墳時代後期の特徴を持ったものである。
ミニチュア土器
占いや祭事に用いられたもの
高杯
当遺跡は旧石器時代からの複合遺跡であるが、発掘された505軒の竪穴住居のうち498軒は奈良・平安時代のものである。
律令制度の下で、大きな勢力がこの地に芽生え育まれ、やがて衰退していった。それは河内郡衛に関連した大きな集落が成立した事なのであるが、その過程は記録として残っていない。次々と出土される遺構・遺物がその謎を明かす大きな手がかりとなるかもしれない。
平安時代の土坑
墨書土器.甕
貯蔵庫だったのか、ゴミ捨て場だったのか、それとも祭事として使われたのか.、不明であるが、この穴から左写真の墨書土器が出土した。
左上写真ではよく分からないので、赤外線撮影したもの。「常陸國河内郡真幡郷戸主刑部龍?人」と書かれている
次の写真の竪穴から重要な遺物が出土している。
下記写真の青磁・白磁で、これは中国、(唐の時代)越の国から持ち込まれた焼物である。
特に青磁は国内での出土例が約3000片しかなく、その過半数は大宰府のものであり、残り半数は平城京のものである。
常陸國の国府でなく、河内郡の郡衛でもないこの中原遺跡からこのような磁器が出土したことは謎であり、いずれにしても中央との深い繋がりを示唆する貴重な遺物である。
竪穴住居
青磁
白磁
この竪穴住居から灰釉陶器、緑釉陶器、刻書土器、朱書土器、墨書土器、瓦などの遺物が出土している。
墨書土器や朱書土器及び瓦は、お寺で使用されたもので、300メートル先の九重廃寺跡(河内郡の郡寺)との関連性が考えられている。
また、瓦は本来お寺のものであるが、ここではカマド脇の補強材として使用されている。
灯明皿
灰釉陶器
刻書土器
灯明皿
お寺で使われたもので、右上の黒ずんだ部分が、油火で焼けた跡。杯の転用と考えられる
瓦
瓦
特殊な竪穴住居であり、恐らく身分の高いお役人が住んで居たのであろう。
壁面に柱跡が残る珍しい竪穴
左写真の竪穴の想像画
四面庇付掘立柱建物は通常の集落では見ることが出来なく、郡衛の機能を持った特殊な施設であったと考えられる。
四面庇付掘立柱建物跡
掘立柱建物想像図
鍛治工房跡から右写真の石製紡錘車や砥石、硯及び土器破片が出土している。
また工房跡の隣に廃棄物を棄てたゴミ捨て場と考えられる施設がある。
当時の生活様式を知る上で貴重な手掛かりとなる。
鍛治工房跡
石製紡錘車
硯
当遺跡は旧石器時代から近世にかけての複合遺跡で、その中でも律令期のものが多く、器では鉄鉢形土師器、須恵器を初めとして灰釉・緑釉陶器、青磁、白磁などが発掘されている。その中で青磁、や白磁は破片とは云え、県内でも初めての発見であり、中央との繋がりを示唆する貴重な資料となっている。
また、金属製品では、銅椀、刀子、鉄鏃、腰帯具、銀環、さらに、瓦や砥石、紡錘車、硯などが出土していて、当時の生活様式を顧みることが出来る。
当遺跡の所在する中原遺跡は、古代書に書かれた「和妙類聚抄」の河内郡の7つの郷の中の菅田郷で、欠落した風土記、河内郡菅田郷の様相を知る上での大きな手がかりになるであろう。
遺跡発掘調査は茨城県教育財団によってまだまだ続いている。
参考文献
財団法人茨城県教育財団 発掘調査報告 中原遺跡
かつて間宮林蔵が少年期を小貝川の流れとともに過ごした歴史ある伊奈町(つくばみらい市)、さらに遡って戦国の群雄割拠の時代は岡見氏が足高に居城を構え、月岡氏が板橋に居城を構え、幾度となく古戦場となった場所でもある。そして更に遡って平安の昔、河内郡大川郷として、律令制度の地方権力者がいたことが解明されようとしているが、いまだ謎である。
鎌田遺跡4区全景
所在地---茨城県筑波郡伊奈町(つくばみらい市)大字南太田字広地
標高22~23mの筑波・稲敷台地の南端は、小高い丘が続き、その丘は畑で埋め尽くされて、のどかな田園地帯が続くその一角に鎌田遺跡の発掘現場がある。同遺跡は県道の新設に伴ない、平成11年4月~9月発掘調査が行われている。
伊奈町で確認されている遺跡は、ほとんどが台地の緑辺部に点在し、当遺跡の周辺は未発掘ながら、縄文時代、古墳時代、中世の遺跡が眠っている事が想像出来る。
遺跡の概要は、面積は15,871㎡全部で5区に分けされて比較広い。現状は畑で、種別は集積跡及び墓跡、時代は縄文時代から古墳時代迄及び奈良・平安時代~中世・近世と長期にまたがっている。
発掘作業
縄文時代土坑
古墳時代竪穴住居
平安時代掘立柱建物跡
平安時代竪穴住居跡
平安時代竪穴住居カマド跡
中世墓(人骨)
縄文土器 | 阿玉台式土器 堀之内式土器 |
---|---|
石器 磨石 | 敲石 打製石斧 |
土師器 | 杯、 甕 |
---|
土師器 | 杯、高台付杯、甕、甑(こしき)、皿 |
---|---|
須恵器 | 高台付杯、甕、甑、盤、高杯、短頸壺、円面硯、こね鉢 |
灰釉陶器長 | 頸瓶、塔、平瓶 |
ニ彩陶器 | 小壺 |
金属製品 | 柄頭、丸鞆、鋸、鉄鍬、刀子、短刀、鎌、斧、閂、火打石 |
石器・石製品 | 紡錘車、砥石、 |
土製品 | 土製紡錘車、支脚 |
古銭 | 寛永通宝 |
---|
打製石斧
敲石
阿玉台式土器
土師器、甕
土師器、杯
土師器、甕
土師器、甑(こしき)
須恵器 杯
引 手
火打鉄
丸鞆
鞆頭
鏃
硯石破片
紡錘車
墨書土器
寛永通宝
当遺跡は、奈良・平安時代を中心とする集落跡と考えられ、当時ととしては遺構の規模が大型であり、特に20棟ほどの掘立柱建造物跡群が広がっていることと、一部の権力者だけしか所有出来なかったニ彩陶器や灰釉陶器が出土していることなどから、役所等の施設に関連する住居跡ではないかと考えられている。また当時この地域は東が田中荘、西は相馬御厨に挟まれて、河内(カッチ)郡大山郷があり、その中心的存在であったと考えられるが、その実態は今だ解明されていない。
ニ彩陶器破片
灰釉陶器
この情報は、平成11年9月4(土)、県教育財団によって遺跡の発掘調査結果を一般公開し、現地説明会を開いた時に取材したものである。
「常陸国風土記」に、それ常陸の国は、境は是広く大きく、地もまた緬(はる)かにして、土壌(つち)も沃墳(よくこ)え、原野も肥えて、墾発(ひら)く處(ところ)なり。海山の利ありて、人々自得(みずから)に、家々にぎはえり。、、、と書かれている。
つまりこの大地は太古の昔から自然環境に恵まれていて、衣食住の人間の営みに大変優れていた事が想像出来るのだが、、、
発掘作業中の下大井遺跡全景
牛久沼の周辺町、そしてつくば市に隣接する茎崎町、正確には茨城県稲敷郡茎崎町大井。小野川右岸の標高約21m前後の台地上に位置している。面積、4136.78㎡の畑から旧石器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代、中世、近世の集落跡、塚、墓跡が発掘、遺構、遺物が出土。これは首都圏中央連絡自動車道(圏央道)建設に伴なう埋蔵文化財の発掘調査によるものである。
調査は平成11年4月1日より同年8月31日まで茨城県教育財団によって行われた。
縄文時代、竪穴住居跡 | 6軒 |
---|---|
古墳時代、竪穴住居跡 | 2軒 |
平安時代、竪穴住居跡 | 20軒 |
土坑(墓壙を含む) | 77基 |
溝 | 3条 |
旧石器集中地点 | 4ヶ所 |
中世の塚 | 1基 |
不明遺構 | 1ヶ所 |
旧石器集中地点
縄文時代、竪穴住居
平安時代、竪穴住居
石器・石製品 | ナイフ形石器、剥片、石鍬、紡鐘車、双孔 |
---|---|
円盤、敲石、勾玉、管玉 | |
縄文土器 | |
土師器(坏、高坏、甕) | |
須恵器(坏、高台付坏、蓋、椀、こね鉢、甕、鉢、、高盤) | |
土器 | 墨書土器 |
灰釉陶器 | |
三彩陶器 | |
転用硯 | |
土師質土器 | |
金属製品・金属 | 鎌 |
煙管 | |
鍛治関連遺物(鉄滓) |
平安時代、須恵器各種
旧石器時代、ナイフ原石
平安時代、墨書土器
旧石器時代出土と考えられるナイフ形石器
僅か1000坪ほどの狭い場所ながら、旧石器時代から平安時代及び近世と広い範囲の時代の遺物、遺構の出土は驚きである。
この地に旧石器時代に人々が最初に住み付き、縄文時代に引き継がれ、そして古墳時代に集落及び部落国家が形成され奈良・平安時代まで引き継がれたものと想像出来るのだが、、、?
遺物の中には奈良時代に遠方からもたらされたと考えられる三彩陶器や、上家・上寺と書かれた奈良・平安時代の墨書土器、そして身分の高いお役人にしか着用が許されなかった革帯、青銅製のバックルがあり、常陸国風土記に記載された河内(かっち)郷の解明、つまり律令体制における郷庁がこの地にあり、役人が住んでいた可能性、石岡に国府を置いた常陸国九郡の内の河内郡河内内郷の存在を解明する貴重な資料と期待されている。
牛久沼を見下ろす八代・庄兵衛新田線県道(白鳥通り)の道路脇に白い物が散乱しているので、貝塚では?という情報が寄せられました。
本日(平成13年2月10日)確認に行ったところ、白い物の正体は風化した貝殻と分りました。現場は民家の敷地内で公道を向いた2メートルほどの傾斜地で、貝殻が剥き出しの状態で散乱していました。漠然と見ていると単なる廃棄物ですが、しかしよく見ると同じ場所に縄文時代の物と思われる土器の破片が埋もれていて、これは貝塚だなと、すぐに分りました。
龍ヶ崎市史・原始古代資料編の遺跡地図を調べると、その場所は馬場下遺跡となっていて、詳しい資料は何もありませんが、おそらく、ニュータウン造成に伴う道路建設の過程で発掘調査されたものと思われます。
その内容は下記の通りです。
以上の通りで、この度の貝塚は、既に調査済み湮滅したものが、敷地内の造園の過程で改めて剥き出しになったのだと思います。したがって、特別な事がない限り、遺跡の再調査はありえないでしょう。
貝殻が散乱する現場
縄文時代と思われる土器の破片
風化した赤貝、はまぐりの貝殻
更に当日は、馬場下遺跡より300メートル程ニュータウンよりの建設現場で土器破片を発見しました。遺跡地図で確認すると長町遺跡となっていて、馬場下遺跡と関連性があると思われます。
龍ヶ崎市史・原始古代資料編によると次の通りです。
以上の通り、内容は馬場下遺跡とほぼ同じです。
長町遺跡、遺物
建設作業現場から見つかった土器破片
遺跡の情報から判断すると古墳時代のものと考えられますが、模様は平安時代の土器とよく似ています。
上総介として関東に下向した平高望。その長男国香は、弟たちとともに父の跡を継ぎ、自らは常陸大掾・鎮守府将軍に就き、筑波郡、真壁郡、新治郡一帯の統治を任されることになる。
国香は、統治の本拠として常陸国明野に館を構えた。そこは、土地も肥え、水も豊富で、開墾には適した土地だった。国香は積極的に開墾を指揮し、時には自ら鍬を手にて、この地方を実り多い農産地に変えて、自家の力を蓄えていった。
国香は、平将門(国香の甥)との戦いに破れ、藤代川(現、龍ケ崎市)に没してしまうが、しかし、その後も一族は勢力を拡大し常陸一帯を治め、その子孫は、平清盛に代表される「平家」として全国で隆盛を極めるのである。
承平5年(935年)、藤代川の戦いに没した平国香の供養塔。
藤代川、現在の龍ケ崎市川原代安楽寺付近で平国香は平将門軍と激しく戦う。この戦いにて国香は戦死したとも、自害したとも言われている。その後、国香を慕う何者かによってこの供養塔は建てられた。
『関東中心平将門伝説の旅』によると、塔は砂岩でできており、相輪の上部が後補であるのと、笠すみの飾りが欠落しているほかは、完形に近いとされている。
銘文は磨滅した為か無く、塔身の四面に浅削りで梵字のキリーク(阿弥陀)ほか、金剛界四方仏が刻まれているとされる。
この塔の特徴である笠の軒反りは、鎌倉後期の五輪塔に似ていて、軒反りの段が細かいのは古い塔に多く、福島1、長野2例で関東ではほとんど見られない。存銘があるのは長野の永和2年(1376)だけだが、他の2例の形態から南北朝・室町期とされる。
塔身の縁取りや基礎の2区の格狭間は、関東形式[永仁~正安年間(1292~1302)成立]を呈しており、古様式を残して鎌倉後期~南北朝期に造立した考えられてる。
出典: 財団法人龍ヶ崎市文化振興事業団作成「龍ヶ崎市歴史散歩」
龍ヶ崎市川原代町、平国香の供養塔
平将門は関東八平氏の基礎を築いた高望を祖父とし、良将を父とした、権威ある関東武士団の一族であった。しかし、将門は父の死後、都に上り、摂政藤原忠平に仕えたが、希望した仕官も出来ず失意のうちに故郷下総へ帰った。
将門は故郷でも一族とそりが合わず孤立した状態だった。
一方、嵯峨源氏の源護と平真樹の小規模な合戦が常陸国北西部(現、結城郡八千代町付近)でおきていた。最初は調停役だった将門も、戦いの勢いはそれを許さなかった。源護の軍事拠点拡大を嫌った将門は、平真樹に与して戦うのである。騎馬隊を組織した将門軍は強く、源護軍を次々と撃破し、退却させてししまう。この戦いで、源護の子が戦死、生きて帰れた者は少なかったと言う。
一旦、敗れた源護は姻戚関係(娘の嫁ぎ先)の平一族に援軍を願うのであるが、平国香(将門の伯父)のみが参戦する事となった。
戦いは再び激化し、将門は筑波・真壁・新治と常陸国の村々を撃破し、藤代川の戦いにて国香を打ち破る。やがて将門は他の武士団を加え常陸国の国府をおとし入れ、ここにいたって叛乱の証となった。やがて坂東を治めた将門は自ら新皇と称するに至った。これを承平天慶の乱という。
一方、父を殺された平貞盛(常陸掾に任命)は下野国押領使藤原秀郷と協力して、猿島郡岩井郷にて将門を滅ぼす。
余談だが、藤原秀郷はその後関東一円に勢力を拡大し、その一族の下河辺氏は龍ケ崎氏の祖となるのである。
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